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わたしは、ダニエル・ブレイク


『麦の穂をゆらす風』などのケン・ローチ監督作!映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』予告編

見過ごしていた作品をやっと見ることができました。ケン・ローチの主題である行政システムと人間の尊厳との間の相克の問題に真っ向から向き合った作品で、素晴らしかったです。特にフード・バンクのシーンが、印象に残りました。

作品の本題からは逸れるのですが映画を見て感じたことは、この時代、対行政のリーガル・サービスが必要とされているのではないか、ということです。この映画の中では、様々な手当の支給を防ぐため、福祉当局(といっても民間委託されているのですが)が煩雑な手続を要求します。それは、申請に訪れた人の尊厳を傷つける一種のハラスメントになっています。申請者側を法的にサポートする人が早くに現れれば、あんなラストにならなかったのにと感じた次第です。

今、理由あって行政法関連の勉強をしようと思っているので、映画の中で描かれる行政への申請、再審査などのシーンに心がざわつきました。

子どもたちの階級闘争

ノンフィクションマラソン、やっと15冊目です。素晴らしいルポです。

 ここに勤めていると、ソーシャルワーカーが介入している家庭の子どもを預かるのは日常の一部だ。しかし、底辺託児所時代には、親たちはみな子どもたちを取り上げられないように戦っていたのである。それが、緊縮託児所の親たちは手放そうとしている。(p.37)

ケン・ローチに「レディバードレディバード」という映画があります。イギリスの社会福祉制度は「ゆりかごから墓場まで」と言われるように手厚いものであることは知っていましたが、「レディバードレディバード」はその裏面を容赦なく描く映画でした。「レディバードレディバード」のヒロインは、シングルマザーで、DVの疑いで次々と福祉当局に自分の子どもを取り上げられてしまいます。その対応がいかにも杓子定規で、福祉行政の官僚的な対応の醜さがこれでもかと描かれていました。

レディバード・レディバード - Wikipedia

 今回紹介する『子どもたちの階級闘争』は、イギリスの下層階級の無料託児所でのボランティア体験記です。前半は「緊縮託児所時代 2015.3~2016.10」、後半は「底辺託児所時代 2008-2010」と題されています。筆者も述べているように、後半が比較的明るいトーンであるのに対し、前半は陰鬱なトーンに彩られています。緊縮財政の下で、下層民の間(例えば上層志向の移民とホワイト・トラッシュと呼ばれる地元民)での複雑骨折ともいえる分断が進む様が、エピソードに基づき描かれています。

託児所が財政難で無機質なフードバンクに変わったとき、筆者は「アナキズムと呼ばれる尊厳」(p.284)が失われたといいます。「底辺託児所」のエピソードには時にホロリとさせるものがあります。どんな人も生きる権利があるという絶対的な肯定が「底辺託児所」の記述にはあります。

ケン・ローチの映画に感動してしまうのも、そこに「アナキズムという尊厳」があるからなのかもしれない、と考えてしまいました。

やちまた

 

 本居春庭の伝をしるしたいと思ったのは、もう四十年近くも昔の学生のことである。わたしは少なくない資料を手さぐりで読みながら、松阪をはじめ関係地をたずね歩き、先学の教えを乞うて回った。そうした記録を綴って同人誌「天秤」に昭和四十三年一月から連載しはじめたが、その結果は「春庭考証のきわめて私的な記録」とでもいう文章になってしまった。しかし、その時分のわたしにはこういう形式、方法でしか書けなかった。一つには、春庭を模索してゆくうちに、春庭はことばを多岐にわかれてはつながっていく「やちまた」にたとえたけれど、人生もまたそれにひとしいという実感が深まったからである。(下巻 河出書房新社版の「帯」より、以下の引用は全て河出書房新社版から)

ある方からノンフィクションを考えるとき参考にしたらよいと言われた本です。その時から既に7年も経ってしまいました。記載されている情報量が半端なく、一度読んだときは途中で挫折していました。今回も、読むのがしんどい箇所を飛ばし飛ばし読んだため、どこまで理解できているか心もとないのですが、途中から興奮して読み進めました。

この本は、本居宣長の息子で、病により盲目となった本居春庭の評伝です。それと同時に、本居春庭の人生に惹かれ追い続けた作者足立巻一の自伝でもあります。このように自伝・評伝ではあるのですが、国語学説についてもこの本の中ではかなり詳細に言及されています。知識面で一歩も退かない意思を感じます。また、たくさんの本居春庭の関係者、関係先(伊勢・松阪市名古屋市など)が紹介され、筆者は何度も実際に足を運んでいます。「構想40年」の重みを感じます。

ここでは印象に残った3点について述べます。

  • 和歌の重要性

本居宣長には国学者、いわゆる"右"の思想家という短絡的なイメージがあったのですが、この本を読みイメージが変わりました。島崎藤村『夜明け前』に言及しつつ、筆者は本居宣長平田篤胤との違いについて次のように述べています。

それに、篤胤には和歌、つまり文学、ことばに対する興味が欠けていたと思われる。だから、宣長を白痴と思われるほど景仰しながら、憧憬を集中させたのはその古道説でしかなかった。これはもともとことばに関する感覚を持たなかったかもしれない。(…)篤胤には語学などは関心のそとにあり、ひたすら主観的な神学だけをつくりあげていった。(上巻 pp.376-377) 

 この本を読むと多くの和歌が引用されています。日本語の鍛錬として、また「もののあはれ」を感得するためにも、和歌は重要な位置づけだったとされています。現在、和歌を詠む人はそれほど多くないと思いますし、かくいう私自身も詠みません。が、この本を読むと、江戸時代、和歌がいかに重要な表現形式だったことがよくわかります。

  • 動詞の活用と”語法”論

本居春庭は、父、本居宣長の学問のうち、語学の側面を受け継ぎました。いにしえの人々の心を理解するためには、その当時の人々の言葉を理解しなければならない、そして当時の人々の言葉の規則を理解し正しい言葉遣いをしなければならない、こう春庭は考えたとのことです。「詞の通路」では自動詞と他動詞の違いについての、「詞の八衢」は動詞の活用についての書らしいのですが、春庭は動詞の接続関係に中心をおいて言語を考えています。

ことばの本質は意味にあるのではなくて語法にあり、その語法によってのみ人間の伝統は受けつがれていくというのが春庭の言語哲学だったと思われる。(…)語法が定まっている理由はあるはずだが、それはつたない人の心ではかり知ることができない、と書いたことの裏には「語法が定まっている理由」まで思索していたと思われる。(下巻 p.5)

中学校、高等学校で、「五段活用」などを勉強したと思うのですが、そもそもなぜ活用が問題となるのかはまったく考えたこともなかったです。このような言語観が裏にあったのだと興味深いものがあります。

  • ファクト・ファインディングの手法

この本の面白さは、春庭の評伝でもあり、作者の自伝でもある点です。なぜ春庭に惹かれるのかが作者自身もはじめはわかっていません。ただ、春庭の生涯について追いかける作業が、そのまま作者の人生と二重写しとなり、時間の「発酵作用」というようなものがページが進むにつれて顕著に出てきます。作者は、青春時代に伊勢市神宮皇學館で過ごすのですが、その高精細な描写自体が一つの貴重なドキュメントになっています。そして、不思議なことに、私自身も伊勢や松阪の地を訪れたいと思ってしまうのです。

まだわからない点、読めていない点も多いので、時間を置いて再読したいと思います。足立さんの本は、他の本もこのシリーズで扱うつもうです。

日本犬の誕生

 

日本犬の誕生

日本犬の誕生

 

 実はこちらの本も頂き物です。ありがとうございます。私と同年代の人が単著をまとめる時期にちょうど差し掛かっているのかもしれません。

私は犬界(?)とは疎遠で、印象論になりますが、コンパクトで資料として価値が高い本だと思いました。この本の主張を端的にまとめるなら、<日本犬>(というカテゴリー)は、昭和前期に「発見」(事後創作)されたもので、その「発見」にはナショナリズムの影響があったというものです。あたかも<日本犬>が鏡となり、明治から昭和時代までの<日本人>が写し出されている感じがしました。

昔読んだ本に、マルティン・ブーバー『我と汝 対話』という本があります。記憶ベースなので誤りかもしれませんが、この本の中に馬小屋の馬のエピソードがあったと思います。

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 

 ブーバーは、関係には「我-汝」(Ich-Du)と「我-それ」(Ich-Es)という二つがあると考えます。ブーバーは「我-汝」関係を説明するのに、馬小屋の馬の例を出します。馬小屋にいる馬と馴じんでいた少年時代のブーバーは、自分にとってその馬は「それ」というような事物ではなく、「あなた」と呼ばれるような「他者」だったと述べています。この箇所を読んだとき、ブーバーは馬を「他者」と考えるんだと印象に残っていました。かように、人間は動物と強い愛着関係を持ちます。

『日本犬の誕生』では、<日本犬>というカテゴリー(「それ」)の問題性についてうまく解明しているように思います。次は、人々と犬の具体的関係、愛着関係(カテゴリーに左右されたゆがんだ愛情の場合もあるかもしれません。)のエピソードなどをもっと読んでみたいなと思いました。

<憧憬>の明治精神史

 

<憧憬>の明治精神史 ―― 高山樗牛・姉崎嘲風の時代

<憧憬>の明治精神史 ―― 高山樗牛・姉崎嘲風の時代

 

半年以上前にいただいていた本です。ありがとうございます。先週末、やっと読み始め一気読みをしました。

まず大変な労作だと思いました。かつ、大変面白く読みました。この本で面白かった点、大きな特徴と思えるのは、次の2点でした。

【問題意識について】

まず、想像以上に美学、美学している点に驚きました。しかし、とても大事な問題提起がなされています。この本の中には、こう書かれています。

また、いわゆるカルチュラル・スタディーズの研究動向は、大衆文化や表象の分析などを通じて、実体的な「文化」の虚構性を暴き出している。しかし、美的価値の場合、まさに意図的につくられた虚構であるからこそ、かえって多くの人の心を強く惹きつけるともいえる。美の虚構性を指摘し批判することは、むしろ問題の矮小化であり、そもそも何故日本的な美が絶えず人々を魅了するのかという理由の解明にはつながらないのである。そこでまず必要なのは、近代日本の精神構造のなかで美意識が占めた具体的な位相を、歴史的過程に即して解明することである。(p.20)

この箇所を読んで、とあるカバー曲を思い出しました。

宇多田ヒカルSAKURAドロップス


宇多田ヒカル - SAKURAドロップス

井上陽水SAKURAドロップス (『宇多田ヒカルのうた』より)」


井上陽水 - SAKURAドロップス (『宇多田ヒカルのうた』より)

1本目は宇多田ヒカルの「SAKURAドロップス」、2本目は井上陽水のカバーです。井上陽水がこの思い切ったカバーを行うに当たって述べているコメントがあります。

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宇多田ヒカル、彼女の「せつなさ」はいったいどうしたことなんだろう。詩から、メロディーから、歌から、届いてくる、あの「せつなさ」の魅力に多くの人たちが魅了されている。彼女の、その感情の提出は日本人にとって残酷なほど一等のエンタテイメントになっているに違いない。

「宇多田ヒカルのうた -13組の音楽家による13の解釈について-」 特設サイト
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井上陽水は、宇多田ヒカルの「せつなさ」が「日本人」を、言い換えるなら日本人の美意識を喚起している、と考えているように読めます。そして、井上陽水はカバーで「SAKURAドロップス」の「せつなさ」を"殺し"にいき、宇多田が持つ楽曲のメロディ―ラインを浮きだたせるのです。

この井上陽水の解釈、カバーには虚を突かれる思いがしました。確かに宇多田ヒカルの楽曲にはせつなさの要素があると思います。私は、彼女の「For you」や「Colors」という楽曲に「せつなさ」を感じます。しかし、彼女の楽曲が、いわば「日本的」と呼ばれる美意識につながる可能性があるかもしれない、とは全く気づきませんでした。

今、私は「日本的」という危うい言葉を使っていますが、なお、"日本的美意識"という言葉で語ることには意味があると考えています。なぜなら、"日本的美意識"と呼ばれるものに、思わぬところで自分自身の感性が規定され、魂が揺さぶられることがあるからです。私が快いものが、同時に(特定の)他の人たちも快いと感じることがどう成立するか(してしまうか)を考えることはとても大事だと思います。

しかし、"日本的美意識"を不変なものとして、実体化して考えるのも危険でしょう。まさに引用にあるとおり歴史的過程を踏まえた検討が必要とされるのです。この本では、<憧憬>という概念をとおして、明治中期、美が社会の中でどう位置付けられたか、美を捉える様々な枠組みがどう変遷したかを歴史的に検討しようとするのです。

【「受容」と「変質」への注目】

この本の構成は、高山樗牛姉崎正治の思想を、時代順に追うというクラシカルなものです。が、読み始めて気づくのは、高山・姉崎の関係者を多数紹介し、かつ、歴史学、哲学、美学、宗教学、メディア論という様々な領域を横断するというかなりの荒業に挑戦しているということです。時代の層全体をつかもうとする強い意図が感じられました。

ただ、単に様々な領域に足を踏み入れるというだけでなく、筆者は一貫して各領域間の関係、特に「受容」という契機を重視しているようにも見えました。ドイツ哲学がどのように日本の知識人に読まれたのか、明治の知識人がどの時期にどの本を読んでいたのか、高山の思想がどう地方の青年に影響を与えたのか等々、思想が単独で実体的に存在するのではなく、関係のなかで成立していることにとても意識的であると感じました。

この観点から特に面白かったのは、「友交際」です。明治期に中央の文芸誌に地方の青年が投稿するイメージはあったのですが、地方の文芸サークル同士が自律的に関係を持ち相互に影響を与え合っていた(PCの世界でいうサーバ・クライアント構成でなく、ピアツーピア構成)とは知りませんでした。ここはメディア論としてぜひもっと続きを読んでみたいと思います。

あと、高山の<憧憬>の本質が斬新的理想主義であるというのも勉強になりました。教科書的には高山樗牛ニーチェ主義と言われており、なかなかそこから理想主義というイメージは出てきません。また、姉崎の箇所で紹介されている(「憧憬」という言葉を使用する)シェリングの思想とも高山・姉崎の両者は異質な気がします。シェリングは、後に実存主義唯物論的契機を指摘されるように、かなり異様な思想家です。社会、時代が異なることで、同じような概念のアクセントが違うことも勉強になりました。

他にも面白いところはたくさんありますが、印象に残ったところはこんなところでした。