Random-Access Memory

(月3回以上更新目標)

謀反の児

 ノンフィクション100冊マラソン19冊目は、宮崎滔天の評伝です。

謀叛の児: 宮崎滔天の「世界革命」

謀叛の児: 宮崎滔天の「世界革命」

 
要するに彼ら[宮崎弥蔵・寅蔵]は、福沢流の進歩主義に対して近代批判を、大井流の外患「利用」の日本革命論に対して世界革命を「目的」とする中国革命論を、ナショナリズムにコスモポリタリズムを対置した。これは、いわゆるアジア主義とは全く位相が異なるものであって、むしろ遥か後世に登場する言葉を使えば、「第三世界革命論」に近接している(p.94)※[]内はブログ執筆者記入、ちなみに宮崎寅蔵が宮崎滔天である。

戦前のアジア主義が現在を考える上で重要であることは、私が大学院生の時から繰り返し聞かされてきました。たまたま行った本屋で宮崎滔天の評伝を見つけ、読んでみることにしました。ちなみに宮崎滔天は次のような人です。

宮崎滔天 - Wikipedia

購入時はアジア主義に関する本かと思っていましたが、読んでみて違うことに気づきました。この本は、コスポリタリニストとしての宮崎滔天を前面に出しています。筆者が取り出した宮崎滔天の論理は、①富国強兵に代表される「上からの近代化」に対し、経済格差をなくし民衆の自治を目指す路線を主張する、②民衆の自治を実現させるための「根拠地」として中国がある、③中国の革命を支援することが民衆が自立する「世界革命」への端緒となる、というものです。「上からの近代化」に抗する論理は鹿野政直さんがいう「民間学」に似ている気がしますが、この本で紹介される滔天の行動範囲はアジア各地に至ります。

tsubosh.hatenablog.com

上記の論理を支える滔天の"気質"としての「コスポリタリズム」がこの本では強調されています。また、その世界性が、横井小楠からキリスト教に至るまでの、熊本の思想的磁場によって育まれたことが本の前半部分で書かれています。個人的にはこの箇所が興味深かったです。熊本バンドから神風連までの振れ幅を持つ、維新前期の思想的るつぼとしての熊本は面白いです。

私が東京に来て驚いたのは、コンビニのレジが、イスラム圏からも含めアジアから来た人が多いということです。日本とアジアとの関係は、滔天の時代よりも深くそして複雑化しています。時代は変われども、どんな人と接するときにも「コスモポリタリスト」の心を持ち接したいものです。

三歩後退一歩前進(その4)

随分と若い友人に「デリバリーお姉さんNEO」というドラマが面白いと紹介されていたのを思い出し、Gyaoで見てみました。無料放送されていた第1話と第3話を見たのですが、第3話にちょっと考え込んでしまいました。私は、今では太ってコロコロしていますが、昔は痩せていて片思い体質でした。考え込んでしまったのは、今では埋もれてしまったその気質を刺激されたからです。

フランツ・カフカに「掟の前で」という短編があります。短いので未読の方は、まずは読んでください。

カフカ『掟を前に』(森本誠一さんのHPから)

この話を初めて読んだのは、高校生の頃だったと思います。正直、よくわからないなというのが当時の感想でした。ところが、30代半ばのある頃、突然、この短編が実感できるようになりました、「そうだ、この短編に描かれていることは、片思いと後悔の構造なのだ」と。

話を飛ばし過ぎました。何故そう読めるか、話の筋に即しながら説明します。話の筋は、次のようにとてもシンプルです。

田舎から人がやってきて、掟の前の門を通過しようとします。すると、門の前に門番がいて、今はまだ入れることはできない、入れるようになったら入れてやる、と言います。田舎の人は、いろいろ試行錯誤しますが、全く甲斐なく、死を迎えます。死の直前、田舎の人は、門番に素朴な疑問をぶつけます、誰もが掟を求めるはずなのに私以外なぜここに来なかったのかと。すると、門番は、なぜならこの門はお前だけのための門だったからのだ、と言い門を閉めます。

田舎の人はどうすべきだったのでしょうか。私は、無理やりでも門を突破すべきだったと思います。田舎の人に必要だったのは懐柔することではなく決断することだったと思うのです。決断しなかった人間には後悔が襲います。その後悔は、私こそが(掟を知る)資格があった人間だったかもしれない、という痛覚を引き起こします。その認識が真だったかどうかは、今となっては、決してわからないのですが。

昨年、大ヒットした映画に「君の名」はという映画があります。この映画は主題歌が「前前前世」であるように「運命の出会い」をテーマとしていますが、「掟の前で」は「『運命の出会い』への出会い損ね」をテーマとしているといえるかもしれません。この「運命の出会い」に出会い損ねた者の後日譚、それこそが「デリバリー姉さんNEO」第3話のテーマだと思うのです。2017年8月5日時点では、Gyaoで無料放送しているので、見られる方は見てください。

gyao.yahoo.co.jp

ドラマの中の表現を使えば、「デリバリーお姉さん」第3話は「青春も赤面するほどの恥ずかしさ」あふれる話です。プロポーズを控えた依頼人が、高校3年夏のぐだぐだになってしまった告白が心のわだかまりになっているので、きちんと振られたい、そのため、告白場面を完全再現してほしい、と便利屋に相談に来ます。エリー(便利屋のメンバー)が告白相手役を務め、依頼人は過去の告白を完全再現し、きちんと振られることで目的を達成します。そこで、奇妙なことが起こります。告白相手役のエリーが、再現劇とわかっていても、依頼人に恋心を抱いてしまうのです。

「掟の前で」に引きつけていうならば、門をくぐれなかった人がその場面を全身全霊で演じるのです。その光景はかなり滑稽でしょう(「デリバリーお姉さん」第3話も、私は、はじめ大爆笑していました。)。しかし、その劇が別の人に密かな影響を与える光景が、緻密なプロットに従って描かれるのです。

この誤配の構造を、その名も「青春ゾンビ」さんが熱量をもって、次のブログで紹介しています。

hiko1985.hatenablog.com

私は、このエントリでは「掟」を「幸福」の意味に理解しましたが、「掟」を「理想」と解しても、同様の後悔の構造として読み取れると思います。「自分の問題意識をたどり直し、きちんと専門領域を決め、1本、論文(的なもの)を書く」ことが、私のオプセッションとして取りついており、これをなんとか成仏させたいと思っています。1995年あたりの話をする前に、このオプセッションについて先に語らないといけませんでした。

ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

ノンフィクションマラソン18冊目は「ナチスドイツと障害者『安楽死』計画」です。重い、しかし大事なテーマです。

【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

 

ハンス・ペーターは興奮してきた。「現代は安楽死や遺伝子カウンセリングの話ばかりだ。知的障害の人間を世話するのはどれだけ金がかかるとか、サービスはそれを最も有効に利用できる人間に優先的に回すとか。生命の質や経済学の話。」
「俺たち障害者は言ってやったよ。『ちょっと待てよ。あんたたちが話しているのは、私たちのことなんだよ』って」(p.327)

原題は「裏切られた信頼によって;第三帝国における患者、医者そして殺害の資格」(By Trust Betrayed: Patients, Physicians, and the License to Kill in the Third Reich)
です。ナチス支配下で障害を持った方の組織的大量殺戮が行われました。悪名高きT4作戦です。この本では、T4作戦の概要、T4作戦に対する医者、法曹関係者、教会関係者の態度が、自身障害を持つ筆者によって、自国アメリカの事情にも触れつつ、わかりやすく書かれています。

T4作戦 - Wikipedia

医者には「ヒポクラテスの誓い」というものがあるとのことです。

医の倫理の基礎知識|医師のみなさまへ|医師のみなさまへ|公益社団法人日本医師会

患者に対し害をなさずベストの診療を施すという医者の誓いの下、患者は医者を信頼し治療を受けます。ナチス期、多くのドイツの医者は、積極的とは言えないまでも、大した抵抗をせずT4作戦に関係します。患者からの信頼を医者は「裏切った」わけです。何故、そうなってしまったのかを、思想的観点(優生学)、経済的観点、そして、医者と患者とのコミュニケーションの観点から筆者は問います。

また、このT4作戦に反対した人々がいたことも、本書では紹介されています。特に抵抗が強かったのが教会関係者です。反対の論陣を張ったフォン・ガーレン司教の説教の中に「汝殺すなかれ」という聖書の一節が出てきてはっとしました。狂気に満ちた社会の中で正気を保つ効用を、潜在的に宗教が持つのかもしれないなと感じた次第です。

三歩後退一歩前進(その3)

前回の続きです。

私は、中学受験組だったので、塾には小学高学年から行っていました。ずっと行っていた塾は河合塾です。※以下、河合塾の宣伝の意図はないので御承知おきを。

当時の私には、河合塾が、大学だけでなく、知の世界への予備校でした。学校で教えてくれない解法などを教えてくれるのも興味深かったのですが、講師が話す、こんな考え方もある、こんな本があるという挑発にも似た話に触発されました。中学生の頃ですが、私が授業を受けていた講師が編集した次のような本が出版され、その中に紹介されている本を読んだりしていました。

中高生のブック・トリップ

中高生のブック・トリップ

 

 そして、予備校の講義を聞いた後、名古屋駅地下の大型書店に行き、文庫本や新書の棚の周りを徘徊し、講義で紹介された本や関連の本を眺めていました。この「耳学問」ならぬ「ちら見学問」によって、多くの作者の名前を知ることができ、今から考えるととても役に立った気がします。

よく言われるように、当時の予備校は、学生の人気が高く、彼らの学力を向上させられれば、何をやっても許されるというアナーキーな雰囲気に満たされていました。授業中、積極的に、挑発的に脱線をする講師もたくさんいました。これは、ただ単に人気取りの面だけでなく、別の意味もあったと思います。結局、勉強は学生自身でやらないといけません。講義を聴くだけでは、勉強は絶対に出来るようにならないのです。問題は講義の達成目標をどこに置くかということです。一般には、わかりづらい知識をかみ砕いて伝えることが、予備校の講義の達成目標だと思います。ただ、雑談をする講師は、知識だけでなく、知への欲望に学生を感染させることが重要だと考えていたのではないでしょうか。知への欲望は、学生の視野を広げ、受験勉強自体を俯瞰した観点から捉えさせることを可能にするからです。

ただ、予備校での講義は、最終的には1個の商品です。私の場合、「あー、今日も面白かったな」という感じで、復習せず授業を受けたままになってしまうことが多かったです。受け身の勉強に慣れすぎると、わからないこと、壁にぶつかったときの対応力が鈍ります。先の記事で述べた今現在の実力よりあまりにも高いものを望みすぎることと、私自身の独学力のなさが相まって、大学入学時、ちょっとした混乱に陥りました。そして、今も、このギャップに似た事態に無意識的に陥っていることがあり、気をつけないと思うことがしばしばあります。

自伝を書くつもりはないですし、そんな齢でもないのですが、このシリーズを始めてから昔あったことが色々思い出されてきました。そういえば、名古屋の千種駅の近くにドムドムバーガーがあったけど、あの店は今もあるのかな、というようなことも含めてです。ネットで調べたら、閉店したそうです。残念です。が、ドムドムハンバーガだったんですね、間違って記憶していました。

retty.me

詳細はまた述べますが、このシリーズの目標は、自分の問題意識をたどり直し、きちんと専門領域を決め、1本、論文(的なもの)を書くための橋頭堡とすることです。ただ、このシリーズの中で、自分の「記憶」にあることを「記録」に変える作業をしても面白いかなと思いました。予備校話はここで切り上げ、自分にとって1995年~1999年はどんな時代だったのかを振り返ってみたいと思います。

三歩後退一歩前進(その2)

大学の授業に付いていけなかった理由は、予備校文化に自分が浸かっていたからかもしれないということを前回書きました。前回の記事を書いた後、色々考えていたのですが、受験勉強文化に浸かっていたといった方がより適切かもしれないと思い直しました。

大学入学当初、戸惑ったのは本が読めないということです。笑われるかもしれませんが、3回生くらいまで新書を1冊読み通すこともできませんでした。1冊読み通しても、字が自分の目を通り過ぎていくだけというか、焦点が合わない感じがずっとしていました。これは、高校時代に長い文章を読む訓練を積んできていなかったからだと考えています。受験国語では、だいたい1~2頁の文章を読み、問題に回答するのが標準だと思います。小論文でも長くて5~6頁でしょう。問題を解くために、短い文章の内部分析を細かく行うことになります。しかし1冊の本を読むということは、息の長い作業です。長い文章も短い文章も、同様に構造を読み解く作業であるのですが、注意の向け方というか、集中の仕方が異なります。水泳で5メートルを息つぎなしで泳ぐことと、25メートル息つぎありで泳ぐことの間に壁があるのに似ています。私の場合は、3回生くらいで何となく本を読む感覚がつかめてきました。

本を読むことができなかった他の理由として、その本を読むには時期が熟していなかったという面もあります。背伸びをするのは決して悪いことではないのですが、ミスマッチが過ぎると苦手意識を持ってしまい逆効果になります。更に悪いことに、私が興味を持ったのは、フランス現代思想という悪文で有名な分野で、ミスマッチの度合が更に深まりました。ただ、その効用として、少々の悪文では驚かなくなりましたが、それが良いことだったかどうかはわかりません。

私の乏しい経験から、高校までの受験勉強から大学向けの勉強へと転換する大学内でできる手当として、新書を1週間に1冊読む読書会形式の基礎ゼミをやったらよいのではないかと考えています。(ただ学生さんに新書代の負担は生じてしまいますね…。)専門書ではなく、必ず新書とし、極力、学力的なミスマッチをなくします。複数の教員が参加し、各自の専門の観点からコメントしたら、更に面白いと思います。岩波ジュニア新書やちくまプリマー新書から始め、岩波新書中公新書に終わる流れで、内容を紹介することが主眼でなく、ともかく本1冊読む「体力」をつけるのが目標です。

少し脱線してしまい、思わぬ提案をしてしまいました。教育の実務に携わっている方からは何、地に足を着いていないことを言っているんだと思われるかもしれません。あくまで思いつきということで。次回に、今回触れるはずだった、私が浸かっていた予備校文化に触れたいと思います。