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(月3回以上更新目標)

三歩後退一歩前進(その7)

11月中旬まで更新しないと書いたのですが、早速、前言撤回して書いてしまいます。今回は、思い込みはいけないという話です。

大学院で行き詰まり(いや「息詰まり」といった方が正確でしょうか)、就職することにしたのは20代も後半の頃でした。ただ、就職するといっても年齢的、キャリア的に厳しい展開が予想されました。また、就活の際、面接でメンタルがつぶれることだけは避けなければと考えていました。そこで、某予備校の司法書士の講座に行くことにし、同時に就職活動をするという方針を取りました。お金は恥ずかしながら、実家から出世払いでもらいました(今振り返ると、本当に恵まれた環境でした…。)。就活全滅でも、少しでも資格取得に近づいていれば、心理的保険ができると考えたからです。

司法書士の勉強を始める前には、法律に全く興味がありませんでした。というより、法律家は、社会の"体制"側につく者として、何の根拠もなく嫌っていました。完全にバカな思い込みです。生活のためという、学問を志す者や"反体制"の側から見れば完全に不純な動機で法律を学び始めたのですが、民法、商法、憲法等の全体像を紹介する講義を聞いた後「しまった」と思いました。率直に言って面白かったのです。また、大学院で倫理学もどきを勉強していた者からすれば、法学を全く知らないのはまずいとも思いました。

例えば民法では「私的自治の原則」を学びます。哲学的アプローチでは、「私的自治の原則」の歴史的淵源や、概念的な分析を行うことになるでしょう。逆に民法では、少なくとも実務的側面からは、その原則がどのように現実に適用されるかが大事になります。条文にせよ判例にせよ、それらは原則の標準的な適用方法の束であり、且つこの社会の規則・規範となります。この社会の現実的な規範と、原則の豊富な適用例を知らず、善悪を語っても説得力がないのではと考えたのです。

その時気づいていたのは、法律に実体法と手続法があるように、学問にもレイヤーがあるということです。コンピューターになぞらえば、哲学がOSであり、法律がミドルウェアであり、社会学などがアプリ層に当たるともいえるでしょうか。それぞれの学問にそれぞれの機能があり、いずれも決して馬鹿にできないものだと、少し謙虚になりました。

その後、社会人になり司法書士は取らずじまいですが、思いこみはいけないという格率だけは残りました。ちなみに、社会人になった直後、同様に避けていたIT関連の勉強をせざるを得なくなり、そこでももっと早くIT関連の勉強をしておけばと後悔しました。

因果は巡るもので、数年前からまた法律に縁が出てきました。そこで、11月に知識の整理を兼ね行政書士試験を受けることにしました。ぶっちゃけ9月スタートなのですが、棄権せず受けてこようと思っています。自分の戒めのために、点数をこのブログに書こうと思います。

そんなこんなで少し更新が滞ります。11月中旬以降、また会いましょう。

三歩後退一歩前進(その6)

前回の記事で「『勉強の哲学』をきちんと読み終える」と書きました。最近、仕事関連の勉強に忙殺されていたため、やっと連休中に読むことができました。読み始める前はどんな本なのか一抹の不安がありましたが、筆者の誠実な姿勢に共感を覚えました。また、この本は、フランス現代思想入門として大変優れていると思います。興味がある方は手に取ってみてはどうでしょう。今回の記事では、『勉強の哲学』の感想を、自分なりに変奏してみたいと思います(韻、踏みました。)。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 さて、社会人になると学生時代と違うタイプの本を読むようになります。例えば、時間管理術、勉強術などの自己啓発本です。最近(私の周りでは)あまりお名前を拝見しませんが、昔は勝間和代さんの本も読みました。(その影響で、レッツノートを買ったことも思い出してしまいました…。)ちなみにこのブログの最初の方の記事でも自己啓発系の本が紹介してあったりします。

自己啓発本も全く読まないよりは読んだ方がいいと思います。ジャンルの癖を知ることはとても大事なことです。しかしながら、私は、ある程度自己啓発本の読書経験を積むと、息苦しさを感じるようになりました。端的にはこんな気持ちです。「そんなに『スキルアップ』してどうするんですか?」。頑張ってスキルアップしても、現実にはそれに比例して年収がアップすることはない、という点もあります。しかし、私が自己啓発本が提示する「未来」に全く惹かれなかったというのが大きいです。比喩的には、自己啓発系の本は、「入口」としては優れたものがあっても、「出口」がない本だったのです。

『勉強の哲学』の優れた点は、自己啓発本の形態を取りながら、性格が全く逆な点にあります。それは、既成の出口でない、自分なりの出口(「逃走線」ともいえるのでしょうか。)の作り方のヒントを提示している点にあります。(思いつきですが、自己啓発的欲望に抗する観点から、『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』を読むのも面白いかもしれないですね。)

実は「自分の問題意識をたどり直し、きちんと専門領域を決め、1本、論文(的なもの)を書く」ために、大学院に社会人入学して論文を書くのも一つの手かなと少し考えていました。ただ、現時点であまり大学院に魅力を感じない、時間的・金銭的にもしんどい、そもそも対象がまだ絞り切れてないと、考えていました。出来ないことをやろうとしても絶対にうまくいきません。しかもワクワク感が全くない選択肢です。

そこで、少し発想(言葉)を転換するため、言葉遊びをしてみました。すると、自分の目指すべき形をアルバムとしたらよいのかなと思いつきました。そう、論文でなくアルバムです。比較的長文の文章を、批評アルバムとして発表するのです。10本くらい書き溜めてアルバムを作りたいなと思っています。CDの歌詞本のような体裁としたら面白いですよね。ZINEやリトルプレスを参考にして、ちょっとしたレイアウトやデザインの勉強もできます。

ということで早速、現在、個人レーベルTCF(Tsubosh Critique Factory)で、シングル作を執筆中です。レコーディングの影響で、この三歩後退一歩前進シリーズは11月中旬までお休みしますが、その頃にはシングル作を1本お見せできるのではと思っています。楽しく、且つ、現実的に歩を進められればと思っています。

映画の奈落

ノンフィクションマラソン21冊目は『映画の奈落』です。今回は記事自体は短いです。

映画の奈落: 北陸代理戦争事件

映画の奈落: 北陸代理戦争事件

 

 滅法面白いノンフィクションです。笠原和夫脚本『仁義なき戦い』シリーズを脚本家高田宏治がどう超えようとしたかを軸に、現実を素材とした実録映画が逆に現実に飲み込まれていく様子が、時系列に沿って書かれています。

最近は便利になり、映画を動画配信で見ることができる時代となりました。早速、「北陸代理戦争」をGooglePlayで見てみました。脚本もさることながら、撮影、編集、演技、いずれもかなりレベルが高いです。ロケがかなりムチャな日程だったことが上述の本に書かれていますが、その影響なのか、映画に妙な疾走感、ドライブ感が宿っています。深作欣二、やっぱりすごいなと感じてしまいました。映画も見てみることをお勧めします。

三歩後退一歩前進(その5)

前回の「三歩後退一歩」シリーズ記事の最後に、「自分の問題意識をたどり直し、きちんと専門領域を決め、1本、論文(的なもの)を書く」ことが、私のオプセッションとして憑りついていることを紹介しました。このオプセッションという言葉でいつも思い出すのは、ライムスターの「Once Again」という曲です。この曲に次のような箇所があります。

www.youtube.com

「夢」別名「呪い」で胸が痛くて
目ぇ覚ませって正論 耳が痛くて いい歳こいて先行きは未確定

この曲は、不惑を超えたはずの私のような人間にぐっと来るものがあります。まさに私も「いい歳こいて先行きは未確定」だからです。そして、「夢」別名「呪い」というリリックも心を揺さぶります。ただ、楽曲の素晴らしさとは別に、この箇所にはちょっとした違和感も感じていました。その違和感とは「夢」という言葉についてです。

あなたの夢は何ですか?―――もし、今、このように尋ねられたら、私は絶句してしまいます。無責任に夢を語ることができた幼い頃ならいざ知らず、今は仕事や日々の生活をこなすことで精一杯だからです。ただ、私が大学生、大学院生、そして働き始めたころにそう聞かれていたとしても、おそらく絶句しただろうなと思います。

「野球が好きだから野球選手になりたい」、「社会正義を実現するために弁護士になりたい」、「ギターを趣味として続けてきて、一度でよいでもよいから仲間と一緒にビックなステージに立ちたい」、このような発言に「夢」という言葉がふさわしく思えます。残念ながら私はそのような立派な夢を持つことができませんでした。ただ、いくら無為に過ごしていたとはいえ、全く日々、何の意志を持たず過ごしていたわけではありません。私にとって問題だったのは、自分の思いや試行錯誤が「夢」という形に収斂していかないことだったのです。

近代哲学の祖ともいわれるルネ・デカルトは、困難な問題に直面したとき、問題を出来る限り分割せよと言います。その言に倣い、「夢」という概念を分割してみると、「欲望」と「社会的意味」とに分けられるのではないかと考えています。そして、この「夢」とは、欲望が社会的に可能な意味(弁護士になる、野球選手になる等)を志向している状態と言えるのではとも考えています。「夢が世界征服」という冗談がありますが、裏を返せば夢は現実的なものでなければならないという社会的前提があるのではないでしょうか。

話の出発点に戻りましょう。「自分の問題意識をたどり直し、きちんと専門領域を決め、1本、論文(的なもの)を書く」というと、「そんなことをやることに何の意味があるのか」があるのかと、もう一人の私がささやきます。私は、その社会的意味を答えられません。しかしフラストレーションがたまります。もう一人の私の声、つまり社会的意味を優先させ、欲望を抑える方法もあるでしょう。でも今、私は、少しこの欲望に忠実になってみようかと思っているのです。

社会的意味からずれた欲望を形にするためには、自分の欲望の在り方を把握することと、それを実現するために頭を使うことしかないのかなと思います。昔の自分に足りなかったのは、頭を使うということだったかもしれない、と今では思います(そして少しの勇気も足りませんでした。)。

読みかけの本で恐縮ですが、千葉雅也さんのベストセラー『勉強の哲学』に紹介されている「欲望年表」も、頭の使い方を考えるために役に立つかもしれないと考えています。話が全く進みませんが、次回は『勉強の哲学』をきちんと読み終えて、(私の考える)頭の使い方について書いてみたいと思います。

最後に、このシリーズ、ちょっと学問的な話に寄りすぎている気がします。食べ物や服、(私が実は好きな)プロレスの話なども振り返りたいです。これらの嗜好も私自身の感性の多くを規定していると考えていますので。