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(月3回以上更新目標)

宇多田ヒカル論

少し時間があいてしまいましたが、ノンフィクションマラソン23冊目です。このペースで大丈夫なのでしょうか…。さらに「ノンフィクション」というものの境界もわからなくなってきていますが、今回はポピュラー音楽の批評本です。

宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌
 

 通読して痛感したのは、詩を分析するのは難しいな、ということです。この本では、宇多田ヒカルの詩を、3つの軸、ultra(超越的なもの)・natural(内在的なもの)・fantome(亡霊的なもの)を通して分析します。率直に言って、個々の詩の分析が少し雑だなと思う面がありました。しかし、すごく面白い分析をしている箇所があったので、そこを紹介したいと思います。

本論に入る前に、少し脱線をします。

たまたまYoutubeで動画巡りをしていたら、元NMB48須藤凜々花さんが、あるTV番組の「俺の持論」というコーナーで「優しい嘘極悪論」を主張していました。彼女は、嘘には3種類あるといいます。「他人に対する嘘」、「自分に対する嘘」、そして「優しい嘘」です。他人に対する嘘は、私たちが普段「嘘」という言葉で考えているものです。自己に対する嘘は、自分の本心を押し殺してしまうような態度です。聞き慣れない「優しい嘘」とは、本当は不味い料理をおいしいと伝えるような、人を傷つけないようにする嘘だと彼女は言います。この「優しい嘘」が、一番問題のある嘘だと彼女は主張します。なぜなら、自分の本心を押し殺し、更には相手の改善の機会を奪うものだからです。そして「優しさ」を拒絶し、本心に忠実に生きていくべきだ、と彼女は考えるのです。この意見は、嘘を自己との関係で捉える卓越した見方だと私は思います。

宇多田ヒカル論』の著者、杉田俊介は、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」の歌詞の中にある「優しさ」という言葉に注目します。


宇多田ヒカル - 誰かの願いが叶うころ

宇多田ヒカルさん『誰かの願いが叶うころ』の歌詞

 

「人は他人や世界に対する優しさをもっと身につけたほうがいい」と言っているのではない。「かつての自分には恋人への優しさが足りなかった」と言ってるわけでもない。
ただ、ある種の優しさは、良かれ悪しかれ、「私」の中に自然と「身につ」いてしまうのだ。本当にそうなのだ。その優しさが、何かを変えてくれるわけでもない。「小さなこと」によって失われてしまった愛が、再び戻ることもない。
この優しさは、たぶん、何物も生み出しはしない。
それでも、人はただ、どうしようもなく、優しさを深めていく。「小さな地球が回るほど」、ひたすら優しくなっていく。(p.150)

須藤が「優しい嘘」の欺瞞性を撃つのに対して、宇多田ヒカルは「優しくなり続けていくことでしか生きられない」(p.151)人間の業を歌うのです。本当は「優しく」なんかありたくないのに「優しくならざるを得ない」人間の業を。
両者の違いは優劣の問題ではないでしょう。私は両方の意見とも大好きです。敢えていうなら、現実に対する「哲学」と「芸術」のアプローチの違いといえるかもしれません。

p.s 杉田さんも述べているように宇多田ヒカルの歌詞はかなりすごいです。私も1度、本ブログで触れたことがあります。御興味があれば。

tsubosh.hatenablog.com

 

ノンフィクション100冊マラソン(~2017年)【倉庫】

1冊目:澤地久枝『密約』
2冊目:斎藤茂男『父よ!母よ!』
3冊目:コリン・コバヤシ『ゲランドの塩物語』
4冊目:河上肇『貧乏物語』
5冊目:NHK「無縁社会プロジェクト」取材班『無縁社会』
6冊目:杉山春『移民還流』
7冊目:ラビア・カーディル『ウイグルの母 ラビア・カーディル自伝』
8冊目:デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウィンター』
9冊目: 堀江邦夫『原発ジプシー』
10冊目:アンドレ・ジイド『コンゴ紀行』
11冊目:アンソニー・ルイス『敵対する思想の自由』(2017.3.12)
12冊目:柳田国男『遠野物語・山の人生』(2017.5.8)
13冊目:武田徹『日本ノンフィクション史』(2017.6.5)
14冊目:足立巻一『やちまた』(2017.7.2)
15冊目:ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』(2017.7.12)
16冊目:松原岩五郎『最暗黒の東京』(2017.7.17)
17冊目:佐々木敦『ニッポンの音楽』(2017.7.22)
18冊目:ヒュー・G.ギャラファー『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』(2017.7.31)
19冊目:加藤直樹『謀反の児』(2017.8.8)
20冊目:板倉聖宣『ぼくらはガリレオ』(2017.8.20)
21冊目:伊藤彰彦『映画の奈落』(2017.9.19)
22冊目:原一男ほか『ドキュメンタリーは格闘技である』(2017.12.2)

【ロング書評】ジャック・デリダ『アーカイヴの病』を読む(後篇)

(前篇はこちら)

tsubosh.hatenablog.com

3.『アーカイヴの病』読解

 デリダは様々な引用や比喩を使い『フロイトモーセ』への批評を複雑に構成する。ここでは細かな分析に立ち入らず、あえて論の大枠を図式的に説明していきたい。

(1)アーカイヴの「アルコン」的原理

 デリダは、アルケー(始原)という語へ言及しつつ、アーカイヴという語について以下のように書いている。

(…)『アーカイヴ』の意味、その唯一の意味は、ギリシア語のアルケイオンに由来する。それは当初、上級政務官の、アルコン(アテナイの執政官)の、支配していた者たちの家であり、住居、住所、逗留地だった。政治的な力をこのように保持し示していた市民たちには、法を作成したり代表したりする権利が認められていた。このように公に認められた彼らの権威が尊重されたので、その当時公文書は彼らの元に(…)集められたのである。(『アーカイヴの病』p.3)

ギリシア語が使用され一見深淵な見解にも見えるが、アーカイヴに対する極めて常識的な捉え方とも言えよう。ある人が特定の作家の文書を集め保存する、それらが集積されるとともに特定の意味づけが行われ、一つの意味体系として権威化されていく場面を考えればそれほど奇妙なことは語られてないのではないか。このアーカイヴのモデルは、当初ほとんど存在しなかった資料が、様々な人の努力により徐々に蓄積されその意味付けも豊かになる、過去から未来への発展モデルとも言える。また、アーカイヴを占有する者(アルコン)に意味づけや権威づけが独占される暴力的な面も見て取れるだろう。引用に示されたようなアーカイヴのモデルを、デリダはアーカイヴの「アルコン的原理」と呼ぶ。

 前章(2)でイェルシャルミが例として出した聖書の再贈答エピソードは、「アルコン的原理」の最たる例である。そのエピソードは、イェルシャルミがフロイトの父の立場に立ち、フロイトを象徴的に「再割礼」しようとしているのだ、とデリダは主張する。フランツ・カフカ(彼もユダヤ人である。)に「流刑地にて」という短編があるが、そこでは処刑機械が罪人の肉体に罪名を鋭い針で書き込み、強制的に法の支配に服させる様子が描かれていた。イェルシャルミは、新しい皮(包皮)にヘブライ語が刻み込まれた聖書を物言わぬフロイトに与え返すことで、フロイトユダヤ性という「他に還元できない排他的な唯一性」のなかに回収しようとしているのではないか、とデリダは批判するのだ。

 アーカイヴはこの「アルコン的原理」だけで構成されるのだろうか。デリダは否と考える。彼は、「アルコン的原理」とは異なる、自身を未来から反復的に裂開していくようなアーカイヴの構造があると述べる。それがアーカイヴの「亡霊」的構造である。

(2)アーカイヴの「亡霊」的構造

  イェルシャルミの『フロイトモーセ』は、第1章から第4章までが彼の講演の書き起こし、第5章が「フロイトとのモノローグ」というフロイトへの手紙で構成されている。デリダは、この本の第1章から第4章までにはあまり興味を示さず、第5章「フロイトとのモノローグ」を同書の「臍」と呼び執着する。第1章から第4章は歴史を客観的に叙述するにすぎない(事実確認的言表)が、第5章ではフロイトとの対話という前代未聞のパフォーマンス(言語遂行的言表)が行われているから、というのがその理由である。

 ある作家のアーカイヴを解釈しようとする者のなかには醒めた関心で仕事として行っている者もいないわけではないが、多くは死者である作家に魅力を感じ著作(アーカイヴ)を解釈しようとする者が大半なのではないだろうか。このような者は、比喩的に批評対象である作家に「憑かれている」(「病で熱にうなされている」)状態かもしれない。事実、『フロイトモーセ』第5章で、イェルシャルミは次のように語っている。

 私はあなたの尋常ならざるお仕事(tsubosh注:『モーセ一神教』)に没頭する中で、近年他の人々が発見した事柄に左右されてはおらず、当のお仕事は今なお『成仏できない亡霊のように』私に取り憑いています。(『フロイトモーセ』p.193)

 イェルシャルミはフロイトの「亡霊」へ何度も仮想的に語りかけを行い、自説を受け入れようとしてもらう。死者でもあり、亡霊の専門家でもあったフロイトに。当然、フロイトは何も答えてくれない。不在者との非対称的なコミュニケーションが第5章中で展開される。そのような状態の中、イェルシャルミはフロイトユダヤ性の中に回収しようとしているのだ。

 ここで「亡霊」という言葉に即しながら、事態をもう少し細かく見ていこう。まず、亡霊はこの世界のものではなく、異世界(異時間)のものである。亡霊は突然到来(venir 英語のcome)し、気づかないうちに人はそれに取りつかれてしまっているものである。イェルシャルミがユダヤ性への取り込みというアルコン的原理を作動させる前に既にフロイトの亡霊は彼に到来してしまっている。デリダは亡霊の到来という事態を、未来(avenir 、「来るべきもの」という意味となる。)という用語で語る。この未来はアルコン的原理の未来(アーカイブの生成・発展)とは質的に異なる未来である。

 イェルシャルミの『フロイトモーセ』は、その広範なリサーチからフロイトのアーカイヴの意味づけに影響を与えるものだろう。滑稽な話だがフロイトの亡霊がフロイトのアーカイヴ自身に影響を与えている事態が起きているとも言える。ただ、亡霊はそれ自体としてはアーカイヴ化されない。亡霊がアーカイヴ化されるとしたら、「現世化」(変形)された痕跡のみである。

 まとめるなら、亡霊とは、到来する(未来的な)、アーカイヴに影響を与えるがそれ自身としてはアーカイヴ化されない、アーカイヴとは「他」なるものであるといえよう。また、亡霊はフランス語でrevenant(再来するもの)ともいう。亡霊は何度も反復して回帰するものであると、デリダは考える。デリダは、イェルシャルミが否定した<父殺し>の反復を擁護する。実際に殺害がなかったとしても殺害の意図はあったかもしれないからだ。その意図が社会に残り、アルコン的原理に基づく「現勢的」アーカイヴに対する「潜勢的」アーカイヴとして影響を与える可能性もあるとデリダは考える。

 「亡霊」に関する今までの読解を裏付けるだろう箇所を以下に紹介する。

いずれにせよ、反復のない未来は存在しないだろう。そしてそれゆえに、アーカイヴのアルコン的創設の中に、<一者>と<唯一独自なもの>の定立、自己-定立あるいは他律-定立の中に、法規範的なアルケーの中に、過剰-抑制を書き込むエディプス的暴力の亡霊を持たないような未来は存在しないとフロイトは言うところであろう。(…)この病は、アーカイヴの病、アーカイヴの欲望と混乱でもあるが、それなしには指定も記載もないだろう。(『アーカイヴの病』p.134)

 アルコン的原理の手前で、アーカイヴは、「熱病」、つまり「他なる」未来に反復的にさらされ、自己裂開(デリダの用語でいえば「差延」)し、自己を再構成するのである。

4デリダから少し離れて

 この記事で『アーカイヴの病』の議論の大枠をつかんでいただけだろうか。デリダによるアーカイヴの亡霊的構造の説明は、フロイトの議論以上に錯綜し、よくわからない箇所がある。最後に思いつきであるが、デリダとは別の著書を紹介することで、この記事を閉じたい。

 柄谷行人は『憲法の無意識』でフロイトを援用しながら、憲法9条の無意識的構造について論じている。

憲法の無意識 (岩波新書)

憲法の無意識 (岩波新書)

 

 アジア・太平洋戦争という強烈な外傷ゆえに、「超自我」(道徳的禁止命令)としての憲法9条が成立した。憲法9条を変えようする動きがあっても、誰もが忘却している無意識的な外傷的記憶が回帰し、「超自我」である憲法9条が反復的に作動する、というのが柄谷の説である。この無意識的構造の強固さゆえに憲法9条は「絶対改正されない」と柄谷は主張するのだ。率直に言って『憲法の無意識』で展開されている議論には首肯しがたい点も多々あるが、この憲法9条の<無意識的構造>というアイデアは捨てきれないなと考えてしまった。デリダの表現を使えば、憲法9条がアジア・太平洋戦争の「亡霊」とアーカイヴの問題に連なる、という点に柄谷は気づいている。鎮魂のアーカイヴとしての憲法9条とその関連資料。よく戦争経験の風化ということが語られるが、<経験・記憶の伝承>という次元を超え、<社会の無意識>を論ずるあり方は一考に値するかもしれない。『アーカイヴの病』でのデリダの議論は、外傷的な出来事(戦争・災害)を巡るアーカイヴと親和性が高いような気がする。

 ただ、柄谷はこの無意識の構造は変更不能のものであると根拠なく断じる。あたかも結論はこうですから後は従ってくださいというような論を前にすると、私はどうしても疑いの目を向けてしまう。イェルシャルミと同様、私は、無意識を過度に強調する説明が人間の日々の努力、主体性を見落としている気がして好きにはなれない。

 無意識(亡霊的構造)と人間の主体性(アルコン的原理)との相互関係を、より具体的な場に即して具体的に考えていく必要があるのではないか。それが『アーカイヴの病』を読んでの、今の私の感想である。

【ロング書評】ジャック・デリダ『アーカイヴの病』を読む(前篇)

1.はじめに

 この記事(前編・後編)は、ジャック・デリダ『アーカイヴの病』の少し長い書評(紹介)である。

  私は学生時代にフランス現代思想を少しだけかじったが、デリダの著作から一般理論を抽出しようとしても生産性がないと考えてきた。デリダは思想家というよりは批評家であり、具体的な著作や芸術作品の批評を行うときにこそ本領を発揮すると考えてきたのだ。『アーカイヴの病』もその面がある。この著作から「アーカイヴ理論」を導きだそうとしても無理があり、デリダの読みを追体験する読みが一番面白いと考えている。この本で主に批評され批判の俎上にあがる作品は、ヨセフ・ハイーム・イェルシャルミ『フロイトモーセ』である。

フロイトのモーセ――終わりのあるユダヤ教と終わりのないユダヤ教

フロイトのモーセ――終わりのあるユダヤ教と終わりのないユダヤ教

 

 『フロイトモーセ』は、ジグムント・フロイトが『モーセ一神教』を執筆する過程でユダヤ教ユダヤ文化がどのような影響を与えたかを論じた歴史書である。

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

 

 『アーカイヴの病』は『フロイトモーセ』に対する批評的作品であり、『フロイトモーセ』は『モーセ一神教』に関する歴史書である。更には『アーカイヴの病』のなかで、何度も『モーセ一神教』を含めたフロイトの著作が直接言及されている。批評対象が入れ子になったり、半ば意図的に違うレベルの話がされたりするため、難解さが一層増すことになる。

 加えて『アーカイヴの病』は、そもそも何が問題となっているかわかりづらい本でもある。その傾向は、デリダに限らずフランス現代思想全般に該当する。フランス現代思想を考える際に、私が手がかりとしている考え方がある。それは、フランス現代思想はフランス戦後思想であるということである。鈴木正は、ある記事で三浦信孝の次の発言を紹介している。

 三浦信孝は巻頭で、この主題(tsubosh注:日仏の戦後思想の比較)をなぜ問うのかの答として「日本の八〇年代の『現代思想』にインスピレーションを与えたのは、実はフランス『戦後思想』だった。言い換えれば、日本の『戦後思想』を支えた知識人たちはフランスの『ポスト近代』の思想家たちと同世代である」と裏側をみている。

dokushojin.com

アルジェリア生まれのデリダは、1930年の生まれである。第二次世界大戦を最も多感な時代に経験している。日本では80年代の消費社会に乗って登場したフランス現代思想も根は戦争にあるのだ。

 本記事では、『アーカイヴの病』読解に必要な範囲で『モーセ一神教』『フロイトモーセ』の議論をまとめた後(前編)、『アーカイヴの病』の議論を紹介し議論の射程について考えたことを述べていきたい(後編)。

 

2.『モーセ一神教』『フロイトモーセ

(1)『モーセ一神教(この箇所は誤りがある点があると思われるためリライト予定です。)

 『モーセ一神教』はフロイト最後の作品である。フロイトがこの作品を執筆当時、ドイツではナチスが政権を握り、ユダヤ人差別が激しさを増していた。フロイトは、ユダヤ人差別の激しさに直面し、自らのユダヤ性、ユダヤ人差別について思考するよう迫られていく。

 差別は被差別者側に原因はなく差別者の方に原因があるというのが、現在の常識的考え方だ。例えば、サルトルは、ユダヤ人問題とは、ユダヤ人の問題ではなくユダヤ人差別を行っている者達の問題だと断じた。しかしフロイトは、ユダヤ人が差別されるのは、逆にユダヤ人の特殊性、「ユダヤ性」故であると考えた。

 フロイトは独自の歴史研究を通じて、ユダヤ教キリスト教の誕生を次のように推測する。まず原始時代のある時点で多神教のなかで一神教を唱えた<原父>がいたはずである。しかし他の神を認めない一神教の過酷さに耐えきれなくなった者たちが<原父>を殺害した。その殺害の記憶は、良心の呵責とともに集団的無意識のなかに封じこまれることになった。このようなことが幾度も繰り返されたのち、エジプトでイクナートンという王が出て一神教を再興しようとした。しかし最終的に再興することができず、エジプトはまた多神教に戻ることになった。そのとき、一神教を信奉していた、高貴な身分の「エジプト人モーセが、当時エジプトで被抑圧民族であったユダヤ人を「選び」、彼らに「割礼」を施した上、ともにパレスティナに渡った。モーセはそこで神の似姿を禁じるなど感覚より知性を重視した精神性の高いモーセ教を展開したが、厳しすぎる戒律に反発するユダヤ人たちに殺害された。そしてその殺害の記憶も抑圧・忘却されたが、一部のユダヤ人たちは道徳的に厳格なモーセ教を守りつづけ、最終的にはパレスティナ一帯がユダヤ教を信ずるようになった。時代が下り、ユダヤ教徒のなかからイエス・キリストが現れた。教えを広めた彼も、しかしながら殺害されてしまう。その後、パウロが出てイエス・キリストが人々の罪を背負って殺されたのだと主張し、キリスト教が誕生した。

 この記述から確認できるのは、<原父>-<モーセ>-<キリスト>と、共同体における父親的存在の殺害が反復していることである。(他のフロイトの著作では『トーテムとタブー』でも同様の父殺しの図式が見られる。)あたかも抑圧・忘却されていた殺害の記憶が、規則的に回帰するかのようである。この点ではユダヤ教キリスト教も構造的には同一であると言えよう。しかし両者には差異がある。パウロはキリストの殺害に特殊な意味づけ(贖罪)を与えることで、キリスト教信者に罪の意識から解放させることに成功した、とフロイトは考える。罪の意識から解放されることで、キリスト教は形式的には一神教だが(堕落し)実質的に多神教化することになった。それに対しユダヤ教徒キリスト教の説明を拒絶し、良心の呵責を手放すことはなく、厳格な一神教に留まった。これはモーセの固有の教えの精神的卓越性による面も多い、とフロイトは考える。ただキリスト教徒からは、ユダヤ教徒は無意識的に罪(父の殺害)を認めていないとされ、異端扱いされることになる。これがキリスト教徒によるユダヤ人差別の隠れた理由である、とフロイトは考えたのだ。

(2)『フロイトモーセ

 上記要約からもわかるように、『モーセ一神教』の記述には、常識的には理解困難な記述が多々ある。またフロイトの歴史解釈の実証的誤りが多くの歴史家から指摘され、また当のユダヤ人からもユダヤ人を攻撃するものとして同書を非難する者が出てきた。

 イェルシャルミは、その歴史的解釈の誤りにも関わらず『モーセ一神教』には尽きせぬ魅力があるとして、フロイト個人のアーカイヴから様々な資料をピックアップし同書の成立過程を解明しようとする。ただ、彼は精神分析的概念を極力使用せず、歴史学ディシプリンに則って歴史解釈を行おうとする。個人レベルでは外傷的記憶(印象)が抑圧・忘却され思いもかけない時に回帰することがあるかもしれない、しかし個人的無意識と集合的無意識(心性)の差は大きい、とイェルシャルミは主張する。「原父殺し」、「忘却され抑圧された記憶」、「忘却された記憶が反復的に回帰する」という精神分析的概念は、個人には適用できても社会には適用できない、集団のなかで忘却された記憶が回帰することはありえず、誰かが忘却せずに記録し後世に伝達しただけである、と主張する。

 イェルシャルミは、同書でフロイトが『モーセ一神教』を執筆中、少なくとも執筆後には明確に自らのユダヤ性を重視するに至った、と主張する。フロイトは公的にユダヤ教精神分析を結びつけることはなかった。彼は科学の一般性、普遍性を重視しており、また精神分析自体をユダヤ人差別から守る必要性から、精神分析ユダヤ教を結びつける言説には慎重であった。イェルシャルミはフロイトの私信などを解読し、公的発言とは異なり、彼はユダヤ文化の影響を多大に受け、またユダヤ性を肯定していたという説を唱えたのだ。『フロイトモーセ』で力点を置かれて紹介されるエピソードに、フロイトの35歳の誕生日に父ヤーコプがフロイトに贈った旧約聖書のエピソードがある。フロイトが幼い時、父が彼に聖書を贈った。その聖書はずっと父の手許にあり埃をかぶっている状態だったが、父が新たな皮で装丁しなおし、その上にヘブライ語聖書やラビ文学等の引用で献辞を書き、フロイトに再び贈り返した。このエピソードから、フロイトが自身の発言とは異なりヘブライ語が読めたこと、またユダヤ教に通じていたことがわかる、とイェルシャルミは推測する。歴史学的な検討を通じ、フロイト及びそのアーカイヴ、更には精神分析自体をユダヤ性という観点からイェルシャルミは意味づけたのだ。

(後編へ)

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【映画評】<映画>と<映像>のリミットを往還する―ジャハール・パナヒ『これは映画ではない』『人生タクシー』論(後編)

前編はこちら。

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2.『人生タクシー』

(a)内容と形式

 Yahoo! Japanの映画ページでは、『人生タクシー』は次のような紹介がされている(2017年12月時点)。*1

カンヌ、ベネチア、ベルリンの世界三大映画祭での受賞経験を持つ名匠ジャファル・パナヒ監督によるユニークな人生賛歌。イラン政府への反体制的な行動によって、映画制作を禁じられたパナヒ監督自らタクシーの運転手にふんし、車内に設置したカメラで客たちの様子を撮影。監督と乗客の会話を通じ、情報が統制されているテヘランに暮らす人々の人生模様を映し出し、第65回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した。

movies.yahoo.co.jp

  様々な映画関連サイトでこの映画の感想を読んだが、上記の紹介と同様、イラン社会の不条理を感じたであるとか、テヘランの日常生活を実感できたとかいうような感想が多かった。これらの感想は、映画の中で描かれる内容にフォーカスしたものといえよう。また、この映画がドキュメンタリーであるという前提に立った感想も見られた。

 これらの感想が誤っているとは決して思わない。ただ、この映画は、撮られたエピソードのみで解釈しない方がよいのではないかとも思う。この作品は、一発撮りした映像を編集し完成できるような代物ではない。交通事故にあった男性がパナヒの運転するタクシーに運びこまれる場面があるが、その際、後部座席に血糊が付く。しかし、次の乗客がタクシーに乗り込む時には、後部座席から血糊が消えているのである。パナヒが運転中に拭き取った可能性もあるのだが、この映画の映像を素直に受け取るなというパナヒからのメッセージのようにも思える。

 この映画は、信号待ちをしているパナヒの運転するタクシーの前を、通行人が歩く様子を撮影したショットから始まる。そのショットには、フロントガラスの下のダッシュボードも映っている。フロントガラスの映像がカメラのフレームとの類似性を感じさせる。さらに、運転中、ダッシュボード上にあったカメラが乗客によって角度を変えられる。これもカメラの存在を意識させるショットである。『これは映画ではない』では最後にパナヒが自分でカメラを持ち撮影を行ったが、今回はタクシー(そこに備え付けられたカメラ類)が撮影機材となり、パナヒがテヘランという街と人々を撮影(運転)しているのだともいえよう。タクシー内のカメラだけでなく、パナヒのスマートフォン、姪っ子ハナのデジタルカメラ、パナヒの友人のタブレット端末、刑務所のカメラに至るまで様々な撮影機器が『人生タクシー』の中では登場し言及される。描かれた内容に加えて、それを誰がどのような意図で撮影するのかもこの映画ではかなり意識的に描かれている。少し話を先に進めすぎた。まずはこの映画の内容から見ていこう。

(b)内容面から考える

(b-1)「俗悪なリアリズム」とセンセーショナリズム

 映画の中で、映画監督志望の大学生が登場する。その大学生は様々な本を読み映画を見たが、題材がどうしても見つからない、とパナヒに言う。パナヒは、既に撮られた映画の中に題材を探してもだめだ、映画の題材はどこにでもある、とその青年に伝える。題材が見つからないのは、姪っ子のハナも同様である。ハナは、小学校で映画を撮影するという宿題が出て、その題材を探している。ただ、彼女は、既に存在する映画の中に題材を求めようとはせず、日常に起こったことをそのまま題材としようとしている。問題なのは、上映可能な映画の題材が見つからないということなのである。

 ハナは、先生から教わった上映可能な映画のルールをパナヒに伝える。「男女は肌を触れあわない」「善人の男性役はイスラム名を使用しネクタイをはめない」等々。権力による表現の自由の制限(リミテーション)だ。明示的ではないが、ハナは、自分が撮った映画の素材が「俗悪なリアリズム」というルールに引っかかるため上映禁止になったと考えているようである。「俗悪なリアリズム」とは、社会の醜い面(暴力、窃盗等)も美しい面と同じく平等に描くことでもある。

 ハナが撮影したという映像は、次のようなものだ。ある家へアフガニスタン人男性が求婚に来た。何の話も聞いていなかった父親は激怒し女性を家に閉じ込めた。男性はそれでも家の外で待ち続けた。その男性を親族が殴って追い返そうとしたが何度も彼は戻ってきた、という話である。この映像には、暴力が、おそらくは人種差別も写されてしまっている。確かにこの話がフィクションならば、「俗悪なリアリズム」という理由での上映禁止は問題であろう

 しかし、問題は別のところにもある。それは、ハナが実際に起きた事件の映像を上映することについて危うさを何も感じていないことだ。このような映像を学校で上映してよいのかという教育上の問題を措くとしても、この映像を上映することで関係者を、また男性自身をも傷つけることになるかもしれないという迷いがハナには全く見られない。もちろん告発の意味を込めて映像を上映することはあるだろうが、その時は覚悟が必要であろう。

 さらに、ハナは、結婚式でカップルが落としたお金を貧しい少年が拾う場面を目撃する。この場面は窃盗のため「俗悪なリアリズム」となり上映ができない。そこで、撮影した映像を上映できるようにするため、カップルにお金を返してきてほしい、とハナは頼むのである。映画上映のためのヤラセの提案である。最終的に少年はこの提案を拒絶するのだが、ハナはそれで不機嫌となる。

 小学生ハナの問題は、何を撮ってよいのか、何を上映してよいのかという内的基準がまだ存在していないことだ。つまり、内的な制約(リミテーション)が存在しないのである。一歩誤ると素材自体の魔力に負け、刺激の強い素材、センセーショナルな素材を求める危険性がある。パナヒは、外的な制約の問題点を描きつつも、内的な基準の存在についても同時に触れているのである。 

(b-2)映像とその所有者

 ハナが少年にヤラセを提案したシーンをもう少し詳しく見てみよう。ハナは、結婚式のカップルが車に乗りこむ場面を撮影している。すると、偶然カップルがお金を落とし、少年がそれを拾うところを彼女は撮影してしまう。実はこのシーンには別のものも映されている。それは、結婚式の様子を撮影するカメラマンである。そのカメラマンはカップルにずっとカメラを向けているが、少年の存在に気づきもしない。このカメラマンによって撮影された映像は、カップルにプレゼントされるものであろう。もしハナが少年にヤラセを行わせることに成功していたら、それはハナの映像となっていただろう。しかし、ハナの映像のためにヤラセに乗ることを、少年は「ヒーローになるよりお父さんにお金を渡したい」と言って拒絶するのだ。「敗者は映像を持たない」というのは大島渚の有名な言葉だが、映像は必ずその裏に所有者がいるのである。

 映画の最後の方で、バレーの試合を観戦したため服役している娘に面会に行った母親の話が出てくる。服役中の女性は抗議のためハンガーストライキをしているのだが、当局は、面会とバーターで、娘がハンガーストライキを行っていないと母親が述べる映像を作成するつもりだった。ハナのヤラセは可愛いものだが、社会的なヤラセとなると事態は深刻であろう。

(C)映画の演出から

 『人生タクシー』では、撮影に多大な制約があるため、作りこまれた映像はあまりない。使用されている映像は、デジタルカメラを始めとして私たちが通常使っている機器でも十分撮影可能なものだ。そのような映像を素材とし、それを文字通り「ハンドリング」することで、十分に面白い映画作品として仕上げている。私たちが撮影している映像そのままでは映画にはならず、映画が映画として成立するには演出や構成がいかに重要か、この映画を見るとその点を痛感する。

 演出の一例として、車への出入りの演出が挙げられる。ハナが少年にヤラセを提案した場面で、パナヒは一旦車を降りている。この演出によって、ハナのデジタルカメラの映像をよりハナしか知らないもののように見せる効果が生じている。この車を出入りする演出は、別のシーンでも威力を発揮する。パナヒが車の中で幼なじみと内密の話をするため、ハナが車を離れる場面がある。その幼なじみは実業家様でネクタイをはめている。彼は、自分が強盗の被害にあったこと、今乗っている車にジュースを運んできた男がその犯人であることを、タブレット端末に保存していた証拠映像を見せながらパナヒに説明する。しかし、彼は、その男が経済的に困窮していることを知っているために警察に訴えることができなかったとも言い、苦しい胸の内を吐露する。彼は決して悪人ではないだろう。彼が車を降りた後、ハナが車に戻ってきて、無邪気にイランで上映可能な映画では「善人の男性役はネクタイをはめていない」と述べる。内密の話を共有していないからこそできる発言である。この演出により、表現規制がいかに人間の本当の姿を映すのを困難にさせるか、映像として体感させてくれる。

(d)さいごに

 前編の記事において、『これは映画ではない』で、パナヒが自らに課された制約に強いられる形で<映画>から<映像>へと越境したと述べた。私は、『人生タクシー』で、パナヒは<映像>から<映画>へと越境したと考えている。パナヒは、直接的な言葉ではなく、私達も使用している撮影機材で撮影した<映像>を素材に演出、構成を駆使し、紛うことなき<映画>を作り上げた。

 制約があるからこそ芸術は輝くことがあるということをよく聞く。しかし、いつか、パナヒには制約なく劇映画を作ってもらいたいと切に願っている。

*1:なお、本記事を書くに当たって参考にした記事は次のとおり。最終アクセス日は、2017年12月9日である。

・「『人生タクシー』は“映画”ではない? 特異な表現を生んだ、イラン社会の現実」<https://beauty.yahoo.co.jp/enta/articles/776851>

・「森達也×松江哲明 “映画監督禁止令”受けるパナヒ監督の最新作「人生タクシー」を絶賛」<http://eiga.com/news/20170415/13/>

・ラジオ番組でのいとうせいこう氏の話(Youtubeで見てください。)

私の映画を見た直後の感想はこちら。

tsubosh.hatenablog.com