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(月3回以上更新目標)

軌道

前回の更新が4月末ですので、随分ご無沙汰になります。前回、上野英信の本を取り扱うと書きましたが、前言撤回して他の本を数冊紹介します。27冊目は『軌道』です。大変示唆に富む本でした。

この本は、2005年のJR西日本福知山線脱線事故について書かれた本です。そして、都市計画コンサルタントで、妻と妹を事故で失った浅野弥三一の事故後の人生に焦点を当てています。JR福知山線脱線事故とは、次のような事故です。

JR福知山線脱線事故 - Wikipedia

民営化が日本社会の主な潮流となったのは、1980年代からのことでしょう。この民営化、効率を上げ組織としてのパフォーマンスを上げることを目標としますが、組織内のコミュニケーションは上意下達が多いように思います。戦後最大規模の民営化である国鉄分割民営化は、裏の目的が国内最大規模の労働組合であった国労つぶしであったと言われています。JR西日本は、その来歴からして、経営層と現場が乖離し、経営層が現場を抑え込む構造にありました。当時TVでよく報道された「日勤教育」のシーンは、その陰湿さにより、日本全体に衝撃を与えたことをよく覚えています。

『軌道』で紹介される脱線事故当初のJR西日本の対応は、あくまで運転手が事故の主原因であるというものでした。ここには、緩みが出た現場や運転手が悪いのであって、組織、特に経営企画部門は何も悪くないという思想があります。組織防衛の意識も手伝って、JR西日本は遺族から強い反発を受けることになります。

被害者の1人である浅野は、都市計画のコンサルタントとして、行政と住民の橋渡しをする仕事をしてきていました。そして、行政の理屈を住民に押し付けるのではなく、住民の視点を重視する姿勢を貫いてきました。事故により浅野自身が被害当事者となるのですが、責任追及を脇に置き、1人の科学者としてなぜ事故が起こったのか原因を知ろうとします。個人を断罪しようとするのではなく、何度も同書で引かれる「事件の社会化」を行おうとするのです。そして最後には、遺族がJR西日本と共同で検証委員会を立ち上げるまでに至ります。このような過程を経つつ、事故原因が運転手個人の問題ではなく組織的な問題であるとJR西日本自身が認め、再発防止に取り組むことになるのです。

この本を読んだとき、浅野の「闘い」を通じて、今後日本がたどるべき「軌道」がおぼろげながらではありますが見えた感じがしました。私は、民営化を声高に主張する政治家、そしてそれを支持する人々に違和感を抱いてきました。生理的な反発感が強くうまく言語化できていない面があったのですが、この本を読んだ後、反発を覚えたのは彼らの人間観なのだと感じました。現場の人間が緩んでいるから事故が起こるという、能力に支配された単純な人間観と選良意識、それが複雑な事故原因を単純化してとらえる悪癖を生み出すのではないか。「敵」「悪者」がわかると、多くの人々は、問題を解決するというよりは、それを叩き享楽する傾向があるのではないか。
人間は意図せずエラーを起こしうるものであることを認め、組織的に対応する必要があること。事故が起きたとき、単純化を行わず、事故事象の複雑さに謙虚に向かい合うこと。このような考え方が広がり共通認識となること自体が、これからの社会にとって大きな決定的な1歩になる気がします。

三歩後退一歩前進(その9)

前回の記事で書き忘れたことがありました。せっかく東京に住んでいるので、いつかG1クライマックスを観に行きたい!なかなか、忙しくて行けないのです。

前回、大学時代に聴いていた音楽について書くと言いました。また、論が脱線してしまいますが、少し思うところがあるので、音楽そのものでなく、別の角度から音楽について取り上げたいと思います。

高校生の頃、ラジカセで音楽を聴いていたとき、よく親に「うるさい、音量を下げなさい」と言われました。これは多くの人が経験したことがあると思います。しかし、このようなことを言われたことはありませんか。「その音楽をどこで知ったの」と。

その当時は、ウザい質問だなあと思っていたのですが、今振り返ると、この問いは面白いと思います。聴いていた音楽をどのように知ったか、自分のことを思い返すと次のような感じになります。

  • 高校時代、

①部活の友人から
②洋楽好きな友人から(TOTOBonJovi etc)

  • 大学・大学院時代、

①所属していたサークルの徹夜カラオケで(岡村靖幸小沢健二THEE MICHELLE GUN ELEPHANT etc)
②音楽好きな友人の強引な紹介(クラシック音楽、ジャズ etc)
③研究の過程で聞いた曲、先輩から紹介された曲(シャンソンパティ・スミスパブリック・エナミー etc)

  • 社会人時代

Youtubeで気になる曲を聴いて、そこでリコメンドされる曲を聴いてみる。

 

こう振り返ると、学生時代までは人づてで音楽を知ることが多かったなと思います。そして、これは社会学的概念である文化資本の問題に直結するなあと感じます。また、社会人になってからは、音楽の話をしなくなったとも感じます。

こんなことをつらつら書いたのは、実は別の問題について考えているからでもあります。実は、今、どのようにしたら家事ができるようになるのかに興味があります。というのも、私、かなりの家事下手です。ただ、誰にどのように何を聞けばよいかわからず我流でかなり雑に問題を解決しています。最近は、インターネットがあるため、ある程度までカバーは可能なわけですが、家事は本質において手仕事だと思っています。画像や理屈でわからない面も多々あるでしょう。

これは仮説なのですが、家事の習得も人間関係の厚みに影響される面もあるのではないでしょうか。家庭内の情報伝播を考えると、現在は、妻-夫、母親-娘、母親-息子、祖母-娘というような流れが考えられるでしょう。もちろん、独力で解決している場合も多々あると思います。でも、そのトライ&エラーが、顕在的な知となっていないのではないかと思います。

昔、教育学に触れたとき、学校での学びを無意識に前提にしているのではないかという感想を持ちました。今、衣食住という人間の生の基本についての学びの姿について是非知りたいな、と考えています。それが、男性が家事をやるようになる社会への潜在的な支援となるかもしれないと思います。

まあ、ごたくを言わず、とっとと家事出来るようになりなさいと怒られるようなことかもしれませんが(汗)。

次回は、大学から大学院のとき聞いて衝撃を受けたブランキー・ジェット・シティーについて書きたいと思います。

三歩後退一歩前進(その8)

そういえば、今年、私は厄年でした。男性は、満25歳、42歳、61歳に、災厄に逢いやすいと言われています。迷信深くはないのですが、この頃、散々な目にあっているため、厄除けに行ってきました。

さて、満25歳の頃を思い返したとき、その頃もなんか行きづまっていたなと思います。丁度、修士の2回生だったのですが、進路にも迷っていた時期でした。四国を歩き遍路したり(徳島~高知)、友人に誘われていった先が自己啓発セミナーだったりしたこともありました(変なダンスを強制的に踊らされたような…)。それまでレールの上を歩いていた感があったのですが、そこを無理でも外れようとしてもがいていた感がありました。ちなみに、人生で初めて、おみくじで凶を引いたのもこの頃でした。

昼夜逆転した生活の中で、TVで見ていた記憶があるのが深夜にやっていたプロレスです。大学生時代、私は、たまたま見た次の試合でプロレスの面白さに気づきました。

武藤敬司獣神サンダー・ライガー新日本プロレス)VS高田延彦佐野直喜(UWFインターナショル)

https://njpwworld.com/p/s_series_00142_1_2

簡単に説明すると、新日本プロレスは最もメジャーな団体、UWFインターナショナルは打撃と寝技を中心とした格闘技スタイルを志向する団体です。この試合は、その両団体の対抗戦という位置づけになっています。

この試合、レスリング主体の静かな展開で入るのですが、途中、佐野直喜がつかまります。しかし、高田はカットに入らず、佐野が延々つかまり続けます。高田は格闘技のルールを厳守する自らのポリシーに忠実であるため、カットに入らないのです。その高田に「仲間がやられているのになぜカットに入らない」と新日側が挑発し続けます。

この試合の何が面白かったのか。それは、違うルールを持つ者同士が闘うという稀有なことが行われていた点です。そして、この試合が、ルールを厳守することと、相手側のルールに敢えて足を踏み入れること、どちらが勇気のあることなのかを見せようとする一種の劇のように、私には見えたのです。

スポーツでは単一のルールの枠内で最善が尽くされます。しかし、現実は単一のルールでは動いていません。人生が異種格闘技戦の連続だと思います。複雑な現実の中でいかに「強く」あるか、昔ほど見る機会はないのですが、プロレスを見るとそんなことを考えてしまいます。

次は、昔よく聞いていた音楽について書いてみようかと思っています。

追われゆく坑夫たち

年度末&年度始めと忙しく全く本が読めませんでした。ただ、社会人ならこのような時期があるのは仕方ありません。ぼちぼちでも本が読める環境に感謝して、再スタートです。日本の代表的な記録文学もコツコツ読んでいきたいと思っています。

追われゆく坑夫たち (岩波新書)

追われゆく坑夫たち (岩波新書)

 

今まで読む機会があったにもかかわらず、なかなか手を付けられなかった本です。そして、軽々しく要約することが厭われる本です。

この本では、北九州の中小炭鉱労働者の労働の苛烈さ(筆者は労働の「奴隷性」と呼んでいます。)について書かれています。それと同時に、その労働自体も奪われた後の、労働者たちの「遺棄」された状態についても書かれています。私は後者の面が印象に残りました。

中小炭鉱(ヤマ)での圧制や理不尽さに耐えかね、多くの炭鉱労働者が中小炭鉱を渡り歩きます。働く中で体が不自由になり働けなくなる者、組合を作って会社と対抗しようとするも解雇されてしまう者、多くの労働者が様々な理由で働けなくなります。くわえて、経営不振のため、また、炭鉱合理化の影響で、中小炭鉱が閉山となり、更に多くの労働者が失業者となります。そして、失業状態となった労働者について、筆者はこう書いています。

彼らがむなしく繰り返しているもの、それはーたとえ彼らにとってどれほど必死なものであってもーいかなる意味においても「生活」ではなくて、動物的な「棲息」そのものであった。しかしその恐るべき「棲息」状態にもまして私を戦慄させるものは、彼らが生ける屍として風化していく速度のはやさであった。(p.186)

この本では、上記のような、アガンベンのいう「剥き出しの生」ともいえる姿が印象に残りました。しかも収容所という行政機構ではなく、中小炭鉱という大手炭鉱を補完するような私的セクターで遺棄が起こっているのです。その点も印象に残りました。

次回、続けて上野英信の『地の底の笑い話』を紹介したいと思います。

沈黙、発話、発達~映画『デトロイト』を活動理論で読み解く(後篇)

 (中篇はこちらから)

tsubosh.hatenablog.com

2 映画『デトロイト』を活動理論で解読する

 映画『デトロイト』は、1967年にデトロイトで起こった「デトロイト暴動(反乱)」(Detroit riot)を描いた映画である。ただ、その暴動(反乱)の全体像を描くというよりは、その只中に起きたアルジェ・モーテル事件に焦点を当てた映画である。Yahoo!映画では、映画の概要が次のように紹介されている。

movies.yahoo.co.jp

 1967年に起きたデトロイトの暴動を題材にした実録サスペンス。暴動の最中、あるモーテルで警察が宿泊客に行った過酷な自白強要の行方を、息詰まるタッチで映し出す。監督は『ハート・ロッカー』などのキャスリン・ビグロー。『スター・ウォーズ』シリーズなどのジョン・ボイエガ、『レヴェナント:蘇えりし者』などのウィル・ポールター、『リチャードの秘密』などのジャック・レイナーらが熱演する。

(1) 警察システムの矛盾

 斎藤環は、『デトロイト』について次のようなTweetをしている*1

公民権法の歴史について私が不勉強のためこの記述が正しいかどうかわからない。ただ「タテマエとホンネのギャップ」がこの映画の重要な論点である点は間違いないと思う。

 この映画は、当時ザ・ドラマティクスというグループに所属していたが、アルジェ・モーテル事件で深い心の傷を負いグループを脱退した歌手ラリー・リードの物語として構想されていたとのことである。しかし、出来上がった映画を見ると、様々な人物が登場する群像劇となっている。

cinemore.jp

この群像劇は、複数の集団システムで構成されている。その中でもデトロイト市警を中心とする警察システムが詳しく描かれている。中篇の記事でIT化とグローバル化に対応できない企業の例を上げたが、デトロイトの警察システムも白人優位の差別的な集団という組織の「性格」からの脱皮が出来ていない。映画で表現されているデトロイト市警の矛盾を例の三角形で表現すると次のようになる。

   f:id:tsubosh:20180304202241j:plain

警察システムは多かれ少なかれどの国でも表と裏を有する。ルールとして服すべき厳密な刑事法規がある一方、その規律をはみ出すことがある。また、権力の分業的な側面として、警察権力を司法権力がチェックする建前になっているが、司法と警察が一体として動くことも多い。容疑者を捕まえるのが警察の仕事(対象)であるが、それを超えて治安維持が主目的となり冤罪を引き起こすこともある。そして、これらの矛盾は『デトロイト』では共同体の矛盾によって拡大している。映画の中で、白人警官がデトロイトを「俺たちの街」と思っていることが数回言及されている。黒人を始めとしたマイノリティーは共同体の中に入らないのである。

 しかも、映画で描かれる警察システムは、自身に矛盾を抱えていることを認めない。その矛盾を隠すために使われる道具が辻褄あわせのナイフである。警察が容疑者を故意に殺害してしまったときに、隠し持っていたナイフを遺体の傍に置く。これで正当防衛を主張することができるようになる。刑事法規の遵守とむき出しの暴力という矛盾する両者を、ナイフという道具が一挙に解決するのである。 

(2) 仕掛けられる強要とダブルバインド

 デトロイト暴動(反乱)の最中、アルジェ・モーテルに宿泊していた客の一人がいたずらでオモチャの銃を撃つ。そこから、アルジェ・モーテルにデトロイト市警がなだれこみ、「狙撃」をした容疑者を捕まえるため宿泊客に過酷な尋問が行われる。そして、その尋問は、象徴的な意味で「目」と「口」をふさぐという方法で行われる。

 尋問の際、宿泊客は手を上げ、壁の方を向いて立たされる。宿泊客の視線は制限され、自分の周りで何が起こっているかが分からなくさせられる。この視線の制限を利用し「死のゲーム」が行われる。宿泊客が1人ずつ別の部屋に連れ出され、その後、銃声が聞こえる。実際には連れ出された人は撃たれていないのだが、壁に向けて立っている客にはそれがわからない。そして、視線が制限されていることで、後の裁判で証言が揺らいでしまう。映画でザ・ドラマティクスが歌う歌の歌詞に「私の目を見て」(Look at my eyes…)というフレーズがあるが、そのような相互関係ではなく、「私を見てはならない」という命令が尋問の場で課されているのである。

 そして、警官は、尋問によってダブルバインドを宿泊客に仕掛けている。ここで宿泊客が受け取っているメッセージは次のとおりである。

A:捜査に協力するため正しい情報を提供せよ

B:正しい情報など必要ない、ともかく屈服せよ

C:容疑者が見つかるはずのないこの場で容疑者が見つからなければお前たちを帰さない 

 Aは表のルール、Bは組織の悪しき「性格」である。宿泊客は、Bが警察のホンネだと気づいている。しかし、時折、Aというタテマエに従い本当のことを言えば、この場から解放されるとの希望を持つ。このAのタテマエに従い最後は裏切られる役が、ディスミュークスである。このような逃げ道のないダブルバインドを警官は享楽するのだ。

 このダブルバインドは、死のゲームの破綻により別の強要となる。わざと殺す演技をして宿泊客を脅すつもりが、事情をよく知らない警官が本当に宿泊客を殺害してしまうのである。ただ、この殺害の隠蔽のため、警察は、残りの宿泊客たちに死体を見せ、「お前は何も見ていないことにせよ」、「ここで見たことを誰にも話すな」と強要する。この状況はダブルバインドとは言えないものの、大きな心理的負荷を宿泊客達に与えるものだ。

 では、この警察の集団的矛盾を淵源としたダブルバインドや強要からどのように脱出できるのだろうか。

(3)歌の回帰

 グレゴリー・ベイトソンは、母親から仕掛けられたダブルバインドから子供が脱却するための方法について次のように述べている。

 子供が真にこの状況から逃れる方法はただ一つ、母親によって放り込まれた矛盾状況について発言できるようになることだ。しかしそうしたところで、その発言を、自分の愛の欠如に対する非難として受け止める母親は、子供を罰し、おまえは事態を曲解していると言い立てるだろう。状況について語るのを阻止するということは、メタ・コミュニケーションのレベルの表現を禁止するということと同じである。このレベルでの表現は、しかし、われわれがコミュニケーション行動を正しく理解する上で欠かすことのできないものだ。(『精神の生態学思索社 ,1990, p.304)

 私はこの映画を初めて見た際、ラリー・リードが奪われた歌を取り戻すことをテーマとして描いた映画だと感じた。映画の前半、ラリー・リードは、デトロイト暴動(反乱)によって公演を中止させられている。この時は外的な要因によって歌を奪われただけだが、アルジェ・モーテル事件以後、ラリーは白人の警察官の警護を嫌い、ショービジネスの場で歌うことを自ら拒絶する。このようにラリーは、この映画の中で2度、声を奪われる。

 彼が歌を獲得するのは、近くの教会で賛美歌を歌うことによってである。劇中で歌われる賛美歌に、私たち(黒人)が苦境に陥っているというフレーズが出てくる。これは、黒人自身が尋問の場面でかけられたダブルバインド潜在的に黒人コミュニティ全体にかけられているダブルバインドに対する象徴的なメタ・メッセージとなっていないだろうか。逃げ道がないことを歌うことが、逃げ道となる状況がそこにある。

 

 後篇ではエンゲストロームの議論から微妙に離れつつも、『デトロイト』を活動理論というツールを使いながら解読してきた。最後に、実在のラリー・リードが参加した、映画用に作られた、そして、この記事で紹介した論点が詰まっている動画を紹介しよう。しかし、僕らの社会も、いつ成長するのだろうか。


1月26日公開映画『デトロイト』特別映像 Growミュージックビデオ

*1:他に参考になったレヴューは次のとおりである。

「映画『デトロイト』が「白人視点で黒人を描く」ことの問題点」https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyayukiko/20180207-00081338/

「『デトロイト』映画評」

https://i-d.vice.com/jp/article/ywqdmb/detroit-film-review-by-shinsuke-ohdera

「映画『デトロイト』あるいは人種妄想をめぐるグレートゲーム

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20180212/p1

特に気になったのは、古谷の批判だ。この批判の後ではあるが、初見の印象と、映画を内在的に理解したいという気持ちに基づいてこの記事を書いている。