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(月3回以上更新目標)

分かりやすい映画が好きかも ~山形国際ドキュメンタリー映画祭2019旅行記

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山形国際ドキュメンタリー映画祭2019で見た映画の感想です。画像右手に見えるのは「現実の創造的劇化」プログラムのパンフです。この「現実の創造的劇化」プログラムの映画を1本も見ることができなかったのは残念でした…。

記事タイトルを「分かりやすい映画が好きかも」としたのですが、今回の映画祭ではメッセージをストレートに伝える映画に心を打たれました。客観的に見ても、被写体とそれに対する愛情(又は憎悪)が強い映画が出来がよかったようにも思います。

 

1.素晴らしいと思った映画

A:あの店長(The Master)(ナワポン・タムロンラタナット監督、タイ、2014)
B:チャック・ノリス vs 共産主義(Chuck Norris vs Communism)(イリンカ・カルガレアヌ監督、イギリス・ルーマニア・ドイツ、2015)

A、Bとも「映画の海賊版ビデオ」を巡るドキュメンタリーです。そして、人が生きていく上で、文化が必要不可欠であることがよく分かる映画でもあります。

Aは、1990年代から2000年代初頭にかけて、タイのバンコクにあった海賊版ビデオ販売店の物語です。当時、タイでは、ハリウッド映画は公開されるものの、それ以外の映画がほとんど公開されていない状況とのことでした。そのような状況の中、「アート映画」専門の海賊版ビデオ販売店が出来、シネフィルの間で瞬く間に人気を博します。「アート映画」といっても、いわゆるオシャレ映画だけではありません。ジブリ映画、北野武映画、Jホラー映画も、その中に入ります。

政治的な理由がないのに、ジブリ映画や北野武映画まで見られない環境があることを想像したことがなかったので新鮮でした。ハリウッド映画とは違う作りの作品を見ることで、映画の見方が格段に豊かになったとインタビューを受けた人が熱く語ります。多様な表現が社会に存在することの重要性が、インタビューの端々から実感できる映画です。

Bは、内容もそうですが、何といってもタイトルが素晴らしいですね。チャウシェスク独裁政権時代、ルーマニアでは資本主義圏の映画を見るのが禁止されていました。そのような環境の中、ハリウッド映画のビデオを密輸入し、複製してお金稼ぎを行う業者が現れます。庶民は、アパートの中の一室に集まり、そこで映画観賞会を行うようになります。

この映画の中で、映画観賞会で皆とロッキーを見た子供が、翌日の5時にランニングをして、ロッキーの真似をするシーンがあります。このシーンに、心揺さぶられました。別に社会主義下の社会ではなくても、ロッキーの真似をした子供はいるでしょう。しかし、ロッキーがない社会がいかに貧しいか、チープなものと笑われるかもしれないものでもそれに感化される機会があることの貴重さを感じました。

 

2.興味深かった映画

C:理性(Reason)(アナンド・パドワルダン監督、インド、2018)
D:これは君の闘争だ(Your Turn)(エリザ・カパイ監督、ブラジル、2019)
E:ある夏のリメイク(Remake of a Summer)(マガリ・ブラガール監督&セヴリーヌ・アンジョルラス監督、フランス、2016)

CからEまで、日本の現状とリンクする面が多々ある映画でした。

Cは、モディ政権下のインドでの反迷信運動を扱った映画であり、ヒンドゥー至上主義とその政治への影響を告発する映画でもあります。昔、日本でもサイババブームがあったかと思うのですが、サイババも厳しく批判されています。映画中に、ヒンドゥー至上主義のとある団体が出てくるのですが、カルト集団に見えてしまいます…。

Dは、ブラジルの高校生の学生運動を取り上げた映画です。地方政府の公立高校再編案に対して、高校生が高校を占拠(オキュパイ)し抗議します。Your Turnという英訳タイトルからもわかるように、監督は学生運動を支持する立場に明確に立ち、現役の高校生の語りを用いて映画をまとめています。

Eは、ジャン・ルーシュエドガール・モランによる記録映画『ある夏の記録』の構造を、ほぼそのまま利用して現在のパリの人々の生活を記録しています。ある映画の構造をそのまま使っても、時代が異なると結構面白い映画となるなあと新鮮な発見がありました。『ある夏の記録』の中に、道行く人々に「あなたは幸せですか」と聞くシーンがあるのですが、Eを見ると現在の人々の方が応対が慣れている感があります。そのようなちょっとした違いから、フランス社会が抱えている社会的な問題の違いまで、いろいろ比較をしながら考えることができる映画となっています。ちなみにEの中に、『ある夏の記録』が撮られた時代は集団が確固とした時代だったが、現在はそれが崩れてきているというような発言をする人が出てきます。『ある夏の記録』を見た時全くそのような感想を持たなかったのですが、『ある夏の記録』は集団の時代の中で個の声を拾った側面があるのかなと感じました。

 

3.イマイチだった映画

F:十字架(The Crosses)(テレサ・アレドンド監督&カルロス・バスケス・メンデス監督、チリ、2018)
G:エグゾダス(Exodus)(バフマン・キアスタミ監督、イラン、2019)

まず、F、Gとも評価が高かった映画です。ただ、私との相性が悪い映画でした。なお、今まで紹介した映画よりも、両映画とも方法にこだわっていると思います。私が読み取れていないかもしれない点はご容赦を。

Fは、ピノチェト政権時代のチリで起こった労働者の失踪事件に関する映画です。失踪した労働者は殺害されていたのですが、現在、その殺害事件が起こった地方に住んでいる住民に、その殺害事件の裁判記録を読み上げてもらいます。そのナレーションにかぶせる形で、その殺害事件が起きた現場の今の姿が写し出されるという構造になっています。

映画祭では、上映後、監督との質疑応答の時間があるのですが、その地方についての公的な記憶を住民と共有したかったという監督コメントがありました。わからないことはないのですが、映画の中では、その殺人事件の解明自体へと向かう意図があまり感じられない感がありました。裁判記録だけでは事件の全容はわからないのではないでしょうか。被害者家族等にインタビューするというような、当たり前とも思える営みが重要ではないかと考えました。

Gは、アフガニスタンとの国境にあるイランの帰還センターの職員を追ったドキュメンタリーです。イランに経済危機が起き、イランの通貨の価値が下落します。その結果、アフガニスタンから来た出稼ぎ労働者が続々とアフガニスタンに帰還しようとします。帰還の許可事務といえるようなことを行っているのが、帰還センターの職員です。

この映画で評価の難しい点は、インタビューアーの位置を、帰還センターの職員が占めてしまっている点にあります。帰還センターの職員は職務以外と思える雑談を延々と出稼ぎ労働者とします。この雑談から移民の様々な姿が見て取れるのですが、少し嫌だなと思ってしまう自分もいました。職員にとっては雑談でも、出稼ぎ労働者にとっては死活問題とも思える会話である可能性があるからです。彼ら・彼女らはアフガニスタンに帰りたいのでしょう。無理やり雑談を行い、それに付き合わせてしまっているような、後ろめたさが残りました。

ともあれ、もっと映画を見たかった。台風め!という感じです。また遠くに映画を見に出かけた際は記録をアップしたいと思います。

2019年10月(山形行きました)

 

皆様、台風19号は大丈夫でしたか。私は、金曜日夕方に東京を発ち、月曜日のお昼まで山形にいました。念願の山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加するためです。

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計8本見ました。天童に泊まっていたのですが、土曜日は台風のため夕方に撤退、日曜日は奥羽本線が1日運休のためバスを使わざるを得ず夕方に撤退、と天候に左右された感がありました。土曜日は、山形でもかなり雨は強かったですね。

映画は堪能したのですが、夜早めに撤退したので、人と話をする機会がなくそこは残念でした。次回は行けるかどうかわからないのですが、様々なイベントに参加してみたいと思っています。

見た映画については、1本記事を書きたいと思っています。

(追記)

tsubosh.hatenablog.com

 

核時代の想像力

ノンフィクションマラソン48冊目は『核時代の想像力』です。大江健三郎の1968年の講演録となります。

核時代の想像力 (新潮選書)

核時代の想像力 (新潮選書)

 

さて、ぼくはこの一年間つづけてお話してくる間に、自分が、想像力とは言葉にほかならぬ、想像力と言葉とをイコールで結んですらいいという考えかたにしだいに達してきたことを、いま問題の結論にむけて収斂しなければならない段階になって、はっきり申したいと思います。(p.282)

「大江はすごい」と連呼している若い友人がいて、少し気になっていて手に取ってみました。読後の感想として、大江って本来的に作家なんだなと強く思いました。

核兵器の使用により人間が滅びかねない社会状況について様々に語られてもいますが、私が惹かれたのは引用される文学作品や創作の基となるようなエピソードの数々です。是非、「2 文学とはなにか?(1)」の同時性を巡る考察、「3 アメリカ論」、「6 文学とはなにか?(1)」のロブ=グリエ論を読んでみてください。私は、「3 アメリカ論」の考察から、なぜアメリカで超能力捜査官がいるのか(!)の手掛かりを得ました。よくTVでやっている例のやつです。

最後に、政治的言説にも鋭いものが見られます。下の記述などもどきっとさせる発言です。

文学の仕事を現場でやっている人間にすぎぬぼくにとって、確実な唯一なことは、政治家がYESという言葉を発すれば、それはYESという内容をもっているのだと、まともにわれわれ一般の人間がうけとりえ、それにたいしてそれぞれに反応しうるという最初の踏み石が、この現実の日本の泥水のなかに置かれねばならぬということです(p.295)

2019年10月初旬報告(記事補足)

皆様、元気ですか。私は病気で寝てました。

先週水曜日夜に、突然、悪寒がしたと思ったら、39度の熱が出て、土曜日までずっと寝てました。そんな中、ブログのアクセス数が急に増えていることがわかったのですが、木曜日・金曜日と朦朧としており、やっと諸々確認できたところです。(このブログの1日の平均アクセス数は数件なのですが、木曜、金曜のアクセスは100件を優に超えていて、ヤバい、何かやらかしたのかとも思いました。)

tsubosh.hatenablog.com

 『在野研究ビギナーズ』(以下『在野~』といいます。)の記事が読まれたらしいのですが、私のしょうもない記事はともかく『在野~』自体を手にとってもらえるきっかけになったらよかったなと思います。

以下は、前回の記事のちょっとした補足になります。

まず、リアルな私を知っている人には言わずもがなのことですが、大学院時代に私と出会った人は、皆さんよい方ばかりでした。その分、制度や環境については、何とかならないのかなという気持ちはずっとありましたね。また、学会でのコミュニケーションが権威主義的だったと実例も挙げずに書いてしまったのですが、改めて振り返ると、感覚的にダメだった以外の具体例が出てきません。少し書きすぎたかもしれません。抽象的な文言になるときは要注意です。(しかも、1度ではなく2度、学会に顔を出したことも思い出したのですが、回数間違いをするくらい記憶から抜けてしまっています。。。)

そこで、学会とは違う場面とはなりますが、院生当時感じていたコミュニケーション上の問題を書いて補足としたいと思います。それは、当時、教員(学会含む。)に自分の未来を握られている感覚や、それに伴う心理的な忖度に対する恐怖感があったなということです。

当時、研究分野に限らず複数の人から聞いた発言で「教員と近い見解だと評価される」というのがありました。学問的に全く意味がわからない発言で、始めは何を言ってるんだかと思っていたのですが、途中から本当の話なのかもしれないと思い始めてしまったのです。そもそも、こんなことは、証明しようにもできないことです。仮にそうだとしても、誰も明確にはそんなことは言わないでしょうから。

この場合、怖いのは、そっと自分の思考を変えてしまうことです。仮に教員の見解に分があるにせよ、自分なりの思考を展開しきちんと間違っておくということは重要なことだと考えています。そのような契機をなくし、そっと「正解」を先取りするような行為はよくないと考えていました。その「正解」が本当に正しいかどうかを捉えなおす作業こそがとても重要なのですから。

今、このような恐怖感を抱いた自分を幼かったなと思います。どのような環境であろうと、自力で自分の道を切り開く気概を持つのが大人です。また、そもそも私を指導してくれていた方は見解を押し付ける人ではありませんでした。少し過剰反応しすぎていたとも思っています。『在野研究~』に、法哲学の領域では「父殺し」を行うことが一人前の研究者になるために必要であるという記述があったかと思いますが、もしこれが事実なら、研究生産のための隠れた機能として、制度的観点から優れているなとも感じた次第です。(もちろん、何かしらの逆機能もあるとは思いますが。)

十数年という時間も経ちました。悪口書いてくさしたいわけでなく、昔、こんな情けないことを考えていた人間がいたというのが、将来誰かの参考になればと思っています。また、今、すごい努力をしている「在朝」の研究者(私も数人知り合いがいます。)には尊敬の念しかないです。

さて、昔話はこれでおしまい。しょぼいアウトプットをまれに出しているだけのコンテンツですがよろしくどうぞ。

在野研究ビギナーズ

ノンフィクションマラソン47冊目は『在野研究ビギナーズ』です。

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

 

面白い本でした。特に、山本哲士さんのインタビューと、第3部「新しいコミュニティと大学の再利用」が面白かったです。私自身も大学院に在籍していたことがあるので、この本で紹介されているエピソードは実践例としてとても参考になりました。

大学院にいたとき、かなり居心地が悪く鬱々としていました。そこにいても学問に対する情熱を感じず、楽しくなかったのです。一度、学会に顔を出した際、コミュニケーションが権威主義的で、正直、ここにはいたくないと思ってしまいました。日常生活でも、誰が博士に進学するか、誰が学振通ったといった、人事的な話が多く、あまり学問の話がないなと思っていました。研究も、手堅い研究が推奨され、なぜあなたはそれを勉強しているのかという根本的な問いに至る話があまりないとも感じていました。

修士から全員博士に進学できるわけでありません。博士に進学できなかった人は別の大学に行ったり、就職したりするのですが、博士に上がれない人がいることが学問的な厳しさを体現しているという雰囲気も嫌いでした。切り捨てることが善ではない、これでは責任だけを負わない徒弟制だとも考えていました。

このようなことを言うと、お前が研究者としての力量がなかったからそのようなことを言うのだという反発があるかもしれません。その点は認めるにせよ、問題の核心はそこにない、また個々人の性格や資質に問題があるわけではない、大学院の知的生産の仕組み自体、その仕組みが個々人に与えている心理的・感情的な影響が問題だと考えていたのです。

『在野研究ビギナーズ』所収の論文の中で、酒井泰斗さんが次のように書いているのを読んで、問題の核心の何かがすっと見えた気がしました。

「(個人的ではなく)共同的な営みとしての研究の、(成果物・生産物ではなく)生産過程に定位した、品質向上のための支援」(p.209)

個人的、成果重視的、そして権威主義的な知的生産体制から、集団的で、過程重視で、平等主義的な知的生産体制へ変更したら、昔、私が感じていた憂鬱は少しは晴れるのかなと考えた次第です。その後の、逆巻さん、石井さん、朱さんの論文も、個人単位ではなく、集団の中で、また社会の中で研究をすることの意味が実体験を踏まえ考えられていて、大変興味深いです。

今、私は、研究者ではなく、よく言っても「潜在的な研究者」にとどまっているのですが、とにかくまともなアウトプットを出したいという気にも改めてなりました。

蛇足ですが、この本に出てくる伊藤さん、昔に会っています。このような形で昔会った人が元気に頑張っていると勇気づけられます。