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(月3回以上更新目標)

おもろいな〜

吉川勇一さんの下の文章がおもろかったので下に貼り付けます。こうやって人と人とがつながっていくんだな〜
「68 半世紀前の砂川闘争から学んだこと」抜粋

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 もう一つ、砂川闘争と関連して、学んだことを記しておきたい。このことはすでに『週刊金曜日』などにも書いたことがあるので、新しいことではないのだが……。
 それは、デモなど、運動の効果に関することである。いくらデモを繰り返しても、署名や集会を重ねても、その政治的影響がなかなか見えず、たえず政治によって無視されてゆくように思えて、運動の効果が空しいように思えることがある。しかし、運動の効果というものは、いつでもそう即時的に目に見えるものではない。長い時間の後に、思いがけないところでそれに出会って目を開かされることもあるのだ。私はいくつか、そういう体験をしたが、その一つが砂川闘争と関係がある。

 一九九八年冬、音楽家の喜納昌吉さんが主催する反戦運動の記者会見に出たときのことだ。その場には、アメリカからデニス・バンクスさんも参加していた。彼は、会員三〇万人、原住民への差別に強い抗議運動を続けている「AIM――アメリカ・インディアン運動」の設立者だ。

 日本人記者から、いつからこのような運動に関心を持つようになったのかと質問されたバンクスさんはこう答えた。

 「一九歳の時でした。駐留米軍の一兵士として立川基地に配属されていました。そのとき、砂川町の基地拡張反対運動が起こり、私のいたフェンスの目の前で、主婦や学生、労働者たちが機動隊と激突しました。殴られても蹴られてもひるまない主婦や学生、そして棍棒の下で頭を割られ、血を流しながら、なおも非暴力でお経を唱え続ける僧侶たち。

 それを目にして、自分はここでいったい何をやっているのだろうか、と考えさせられました。それがきっかけで、軍隊や戦争、そして政治や差別の問題に関心を持つようになったのです。私をこのような道に進ませる契機は砂川町での日本人の非暴力の闘いでした……」。

 記者会見には、婦人民主クラブの山口泰子さんもいたが、私も山口さんもそれを聞いて驚いた。二人とも、まさにそのフェンスの外で殴られていた中にいたのだったから。
 砂川町での激突は一九五五〜六年の秋だったのだから、四〇年以上も前のことだ。デモの一つの結果は、こんな形で国境、人種、そして時代をこえて知らされたのだった。
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