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追悼の政治

油断していたら風邪を引いてしまいました。葛根湯飲んで一日静養。
うつらうつらしながら『追悼の政治』(エルンスト・ユンガー 月曜社)を読んでいました。

むつかしい!

政治的文書を書いても文学者は文学者だと感じました。この人、第一次大戦従軍経験(ドイツ軍)を経てドイツナショナリズムに目覚めていくのですが一筋縄でいかない。彼は、まず現代を「総動員」時代と規定します。昔は戦争は「騎士の戦争、王の戦争、市民の戦争」であったのですが、現在は「労働者の戦争」となった、つまり現代になって、国民すべて(労働者)が戦争に関与せざるをえない構造となったと主張するのです。このような総力戦化は、彼によれば物質文明の「進歩」の行き着く先なのです。

ファシズム、ボルシェビズム、アメリカニズム、シオニズム、そして有色諸民族の諸運動において、進歩が、これまで考えられもしなかったような大胆な試みに取り掛かろうとしている。進歩はいわば宙返りをしたのであり、(・・)進歩は、もはや絶対主義体制のそれと変わらないような形式に諸民族を従わせ始める。多くの箇所で人道的な仮面が剥がれ落ち、それに代わって半ばグロテスクで半ば野蛮な機械フェティシズム、素朴な技術崇拝が出現する」(「総動員」 p70−71)

この進歩批判はよくわかります。「アメリカニズム、シオニズム」なんて現代の問題ですし。ただ一筋縄でいかないというのは、表現がむつかしい点。妙にリアルな部分(「鋼鉄」などの即物的表現)と魔術的な部分?(「性格の共同体」などのミスティシュな表現)が混在しています。

…と書いているうちにまたぼんやりしてきました。葛根湯はきくんだけどな〜。