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失われた記憶を求めて

『失われた記憶を求めて』(文富軾著 現代企画室)を読みました。

ポストコロニアル批評ということが、最近よく言われます。いかに「植民地」的な思考を乗り越えるのかを問う批評ですが、「何あたり前なこと言ってるんだよ」と感じてきたのも事実でした。しかし、この本を読んで、少し待てよ・・・と感じてしまいました。

それは、「日本も5年程度のアメリカの占領を受け、その後もアメリカ主導の『経済発展』というイデオロギーを内化した、まさにコロニアルな状況にあるのでは?」と感じたからです。その考えを抱かされるほど、この本が描いている韓国の状況と日本の状況は似ている気がするのです。

この本は、光州事件を主なテーマとしています。筆者は光州事件の理解として、「無垢な民衆を軍部が抑圧した」という図式を拒否します。

「韓国で大小の選挙が実施されるたびに、どうして民衆は光州虐殺を擁護した者に票を投じることで、自己の記憶を自ら裏切るのだろうか。いや、遡ってみれば、光州抗争はなぜ孤立したのか。他の地域の民衆は、権力のどのような名分に合意することで、自身の沈黙を正当化したのか」(p72−73)

民衆はいわば虐殺に「同意」した、なぜ「同意」したかといえば、経済成長がとまることを恐れたからだ、と筆者は言います。この説自体の判断はできませんが、この考え自体はよくわかります。日本でも、公害等(水俣など)、いかに自分たちが経済発展を自らの金科玉条としてきたかを考えれば、両者の類似性は一目瞭然としています。また、第5章は「転向」の問題を取り扱っていますが、日本の戦前の転向の問題と構造は同じだなと感じました。思考を日本という枠組みでなく、東アジアという枠組みにまで広げないといけないと感じました。