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君のためなら千回でも

君のためなら千回でも」(マーク・フォスター監督)を見ました。

うーん。

これを感動作と呼ぶ人もいるかもしれないけど、激しく違和感が残る映画だった。

1970年代末のアフガニスタン、主人公のアミール少年と、召使のハッサン少年(ハザラ人)、二人は大の「親友」だった。あるとき、ハッサンが暴行を受けているのをアミールが見殺しにした。更にはそれに気づまりを感じたアミールが、ハッサンに時計の盗みという無実の罪を着せ、二人は離ればなれとなってしまう。その後、ソ連のアフガン侵攻でアミール一家は逃亡。アミールはアメリカで作家となった。時が過ぎ、ハッサンがタリバン政権に殺され、彼の息子が囚われの身になる。少年時代の贖罪のために、ハッサンの息子を救いに、アミールはアフガンに戻る・・。 といった内容なのだけれど、

一番まずいなと思ったのは、映画全体を通じてアミールがハッサン、そしてハッサンの息子に対して恩寵的な関係を取り続ける構造となっていることだ。つまりアミールとハッサン親子は対等の立場となったことがないのだ。この恩寵的関係の底には、ハザラ人に対する民族差別が横たわっている。アミールの父親はできるだけそれに抗おうとしていたが、アミールはハッサンとの関係について友情という観点からしか考えておらず無自覚である。最後の決め台詞も、アミールの無自覚さ、無邪気さを露骨に示すものとして受け取ってしまった。

ちなみにハザラ人問題を初めて知った。たとえば下のページ。

http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature05/