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私の体験的『方法序説』入門 2:第4部読解篇

では実際に『方法叙説』第4部を読解していきます。


コギトの発見、それ自体の論理展開は難しくないのですが、
一見、わけがわからない例とともに、
提示されていることに気がつきましたか?


「最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考が
すべて眠っているときにも現れうる、
しかもその場合、真であるものは1つもないことを考えて、
わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、
夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。
しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。
すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、
そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。」(p.46)


私は、第4部の読解上、コギトと同じくらい大事なのは、
「眠り」「目覚め」というメタファーの含意を
つかめるかどうかだと思っています。


マトリックスという映画を見たことがありますか?
あれは完全にデカルトが考えた問題を取り扱っています。
ネオという主人公が、コンピュターに支配された世界に
つまり「眠り」の世界に生きています。
そのあと、モーフィアスという抵抗運動のリーダーによって
ネオは、本当の世界、すでに人類は滅亡寸前で、
コンピュターに支配されている現実に「目覚め」るのです。


デカルトに戻りましょう。
デカルトの思考では、現世はほぼ「眠り」の世界なのです。
「眠り」の世界とは、何一つ確実なものがない世界、
感性、想像力などが支配している世界です。
では「目覚めた」のちの世界はどこか。
それは(抽象的な言い方ですが)普遍的な理性が支配しているような世界、
準備作業1で見た(ここまで言うと誤りなのですが)自然法的世界なのです。
人間は「眠り」から「目覚めた」世界への途上にある存在なのです。


「夢を見ていないか」と"考える"行為は、
どれほどその行為の結果が誤りであっても、真理への第一歩になります。
この第一歩の"確かさ"こそが、デカルトのいう「ゆえにあり」なのです。


「自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、
きわめて明証的にきわめて確実に、私が存在することが帰結する」(p.46)


ではこの理性(=真理を求める能力)はどこから来たのでしょうか?
真理は、完全、包括的、普遍的なものです。
しかし人間は、有限であり、何より肉体(感性)に拘束されている存在です。
不完全な人間がなぜ完全なものを思考することができるのかとデカルトは問います。


「完全性の高いものが、完全性の低いものの帰結であり、
それに依存するというのは、無から何かかが生じるというのに劣らず、
矛盾しているからだ。そうして残るところは、その観念が、
わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった」(p.49)


一見するとむ?となりますが、
準備作業2でみた神が理性のディストリビュターであるという考えの
変形バージョンだと考えればよいかと思います。


ほかにも重要な箇所はありますが、
これでなんとなく感じはつかめていただけたかと思うのですが。
デカルトキリスト教的思考の変形バージョンにしかすぎないという見方もできます。
しかし逆にいえば、神について妄信的に語らず(例;神と合一できるなど)、
徹頭徹尾、理性の相のもとで語っているといういみで、
名の通り「合理論者」なのではないでしょうか。


ps 私の友人にもカルテジアンデカルト主義者)はいます。
サンドバックになるかも(笑)。