『原発ジプシー』書評(+最近感じたこと)

ノンフィクションマラソン9冊目です。書評よりも近況報告の方が分量が多くなってしまいました。でもまだ自分の気持ちをうまく表現できていません。

原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録

原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録

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3月11日から半年が過ぎました。3月11日以降の日本の重要課題が「今後の原発政策をどうするか」であることは、おそらく衆目の一致するところでしょう。私は自分を世俗的な人間、つまり流行や時事的なものにすぐ飛びつく人間だと考えているので、原発の問題にすぐ飛びつくものだと自己分析していたのですが、ところがどっこい、どうにも言えない違和感が心の底にたまり、原発の問題にあまり関わりたくないという状態が自分のなかにずっと続いています。

まず目の前の事態を大枠で把握するならば、いかなる科学的な言辞をもってしても、相当深刻な事態が起きていると私は考えています。しかしながら「御用学者」(と原発反対派より呼ばれる人々)が主張するように、低線量被ばくがあまり人体に影響を与えなければどれほど救われるかと本気で考えてもいます。おそらく結果は、推進派と反対派の主張の間になるのでしょう。どこの地点の結果が出たとしても、無疵ですまされず、憂鬱になってしまいます。

今回の東電福島原発事故が難しいのは、「『基準』をめぐる政治的闘争」が至る所で起きている点だと考えています。例えば(私の乏しい知識によるのですが)水俣病を思い起こしてみると、メチル水銀が有毒でないという議論は当時でも成り立たなかったはずです。当時の政府寄りの医者は「風土病」が水俣病の病因であると判定したと記憶しています。もちろんその後の水俣病患者認定訴訟の過程で、「誰が患者として認定されるのか」という基準を巡る闘争が噴出するのですが、東電福島原発事故は、1)低線量被ばくの影響の科学者間の合意が取られていない、2)放射性物質の影響は遅効性であるため因果関係の証明が難しい、などの理由で、基準をめぐる政治的闘争の面が更に増幅されているように感じています。昨今の原発論議をめぐる言説の磁場は、科学という相のもと、お互いの基準をもとにした主張が、あまり交わらない形で展開されています。しかもその磁場は相互不信の感情で満たされています。前段で「大枠として深刻」と書きましたが、私が確信をもって言えるのはそこまでで、「安全か/安全でないか」という細かな線引きが日々議論されているのを見て、私としても何が正しい線なのかかわからない、ストレスフルな状況が続いています。

そのように腰が引けた状態が続いていたのですが、ノンフィクションとは時代と切り結ぶもの、話題の『原発ジプシー』を読んでみました。この本を知ったのは3月11日よりずいぶん前でなかなか入手できなかったのですが(Amazonの古書でもそれなりの値がついていた記憶が)、3月11日以後、復刊されたため手に入りやすくなり、これ幸いと購入していました。

この作品では被ばくに対する恐怖が何度も語られます。更に印象に残ったのが、被ばくを避けるため、原発の仕事が人間の生理を無視した仕事になる点です。堀江は以下のように語っています。

本文中で幾度となく描写したように、管理区域内に一歩踏み込んだら最後、大小便はもちろん、水を飲むことや食事・喫煙、さらには汗を手でぬぐうことも、疲れたからといって床に坐りこんだり壁に寄りかかることさえ”禁止”されている。つまり労働者は、自分が生命体であることの証しである「生理」すらも捨て去ることが強制されているのだった。(p.316)

3月11日以降、原発に関する情報が爆発的に流通することで、この本に書かれていることが陳腐化するのかなという危惧もありましたが、上の論点だけでなく3月11日以後につながる視点をいくつか持つ良書だと感じました。

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