<憧憬>の明治精神史

 

<憧憬>の明治精神史 ―― 高山樗牛・姉崎嘲風の時代

<憧憬>の明治精神史 ―― 高山樗牛・姉崎嘲風の時代

 

半年以上前にいただいていた本です。ありがとうございます。先週末、やっと読み始め一気読みをしました。

まず大変な労作だと思いました。かつ、大変面白く読みました。この本で面白かった点、大きな特徴と思えるのは、次の2点でした。

【問題意識について】

まず、想像以上に美学、美学している点に驚きました。しかし、とても大事な問題提起がなされています。この本の中には、こう書かれています。

また、いわゆるカルチュラル・スタディーズの研究動向は、大衆文化や表象の分析などを通じて、実体的な「文化」の虚構性を暴き出している。しかし、美的価値の場合、まさに意図的につくられた虚構であるからこそ、かえって多くの人の心を強く惹きつけるともいえる。美の虚構性を指摘し批判することは、むしろ問題の矮小化であり、そもそも何故日本的な美が絶えず人々を魅了するのかという理由の解明にはつながらないのである。そこでまず必要なのは、近代日本の精神構造のなかで美意識が占めた具体的な位相を、歴史的過程に即して解明することである。(p.20)

この箇所を読んで、とあるカバー曲を思い出しました。

宇多田ヒカルSAKURAドロップス


宇多田ヒカル - SAKURAドロップス

井上陽水SAKURAドロップス (『宇多田ヒカルのうた』より)」


井上陽水 - SAKURAドロップス (『宇多田ヒカルのうた』より)

1本目は宇多田ヒカルの「SAKURAドロップス」、2本目は井上陽水のカバーです。井上陽水がこの思い切ったカバーを行うに当たって述べているコメントがあります。

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宇多田ヒカル、彼女の「せつなさ」はいったいどうしたことなんだろう。詩から、メロディーから、歌から、届いてくる、あの「せつなさ」の魅力に多くの人たちが魅了されている。彼女の、その感情の提出は日本人にとって残酷なほど一等のエンタテイメントになっているに違いない。

「宇多田ヒカルのうた -13組の音楽家による13の解釈について-」 特設サイト
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井上陽水は、宇多田ヒカルの「せつなさ」が「日本人」を、言い換えるなら日本人の美意識を喚起している、と考えているように読めます。そして、井上陽水はカバーで「SAKURAドロップス」の「せつなさ」を"殺し"にいき、宇多田が持つ楽曲のメロディ―ラインを浮きだたせるのです。

この井上陽水の解釈、カバーには虚を突かれる思いがしました。確かに宇多田ヒカルの楽曲にはせつなさの要素があると思います。私は、彼女の「For you」や「Colors」という楽曲に「せつなさ」を感じます。しかし、彼女の楽曲が、いわば「日本的」と呼ばれる美意識につながる可能性があるかもしれない、とは全く気づきませんでした。

今、私は「日本的」という危うい言葉を使っていますが、なお、"日本的美意識"という言葉で語ることには意味があると考えています。なぜなら、"日本的美意識"と呼ばれるものに、思わぬところで自分自身の感性が規定され、魂が揺さぶられることがあるからです。私が快いものが、同時に(特定の)他の人たちも快いと感じることがどう成立するか(してしまうか)を考えることはとても大事だと思います。

しかし、"日本的美意識"を不変なものとして、実体化して考えるのも危険でしょう。まさに引用にあるとおり歴史的過程を踏まえた検討が必要とされるのです。この本では、<憧憬>という概念をとおして、明治中期、美が社会の中でどう位置付けられたか、美を捉える様々な枠組みがどう変遷したかを歴史的に検討しようとするのです。

【「受容」と「変質」への注目】

この本の構成は、高山樗牛姉崎正治の思想を、時代順に追うというクラシカルなものです。が、読み始めて気づくのは、高山・姉崎の関係者を多数紹介し、かつ、歴史学、哲学、美学、宗教学、メディア論という様々な領域を横断するというかなりの荒業に挑戦しているということです。時代の層全体をつかもうとする強い意図が感じられました。

ただ、単に様々な領域に足を踏み入れるというだけでなく、筆者は一貫して各領域間の関係、特に「受容」という契機を重視しているようにも見えました。ドイツ哲学がどのように日本の知識人に読まれたのか、明治の知識人がどの時期にどの本を読んでいたのか、高山の思想がどう地方の青年に影響を与えたのか等々、思想が単独で実体的に存在するのではなく、関係のなかで成立していることにとても意識的であると感じました。

この観点から特に面白かったのは、「友交際」です。明治期に中央の文芸誌に地方の青年が投稿するイメージはあったのですが、地方の文芸サークル同士が自律的に関係を持ち相互に影響を与え合っていた(PCの世界でいうサーバ・クライアント構成でなく、ピアツーピア構成)とは知りませんでした。ここはメディア論としてぜひもっと続きを読んでみたいと思います。

あと、高山の<憧憬>の本質が斬新的理想主義であるというのも勉強になりました。教科書的には高山樗牛ニーチェ主義と言われており、なかなかそこから理想主義というイメージは出てきません。また、姉崎の箇所で紹介されている(「憧憬」という言葉を使用する)シェリングの思想とも高山・姉崎の両者は異質な気がします。シェリングは、後に実存主義唯物論的契機を指摘されるように、かなり異様な思想家です。社会、時代が異なることで、同じような概念のアクセントが違うことも勉強になりました。

他にも面白いところはたくさんありますが、印象に残ったところはこんなところでした。