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【映画評】<映画>と<映像>のリミットを往還する―ジャハール・パナヒ『これは映画ではない』『人生タクシー』論(後編)

前編はこちら。

tsubosh.hatenablog.com

2.『人生タクシー』

(a)内容と形式

 Yahoo! Japanの映画ページでは、『人生タクシー』は次のような紹介がされている(2017年12月時点)。*1

カンヌ、ベネチア、ベルリンの世界三大映画祭での受賞経験を持つ名匠ジャファル・パナヒ監督によるユニークな人生賛歌。イラン政府への反体制的な行動によって、映画制作を禁じられたパナヒ監督自らタクシーの運転手にふんし、車内に設置したカメラで客たちの様子を撮影。監督と乗客の会話を通じ、情報が統制されているテヘランに暮らす人々の人生模様を映し出し、第65回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した。

movies.yahoo.co.jp

  様々な映画関連サイトでこの映画の感想を読んだが、上記の紹介と同様、イラン社会の不条理を感じたであるとか、テヘランの日常生活を実感できたとかいうような感想が多かった。これらの感想は、映画の中で描かれる内容にフォーカスしたものといえよう。また、この映画がドキュメンタリーであるという前提に立った感想も見られた。

 これらの感想が誤っているとは決して思わない。ただ、この映画は、撮られたエピソードのみで解釈しない方がよいのではないかとも思う。この作品は、一発撮りした映像を編集し完成できるような代物ではない。交通事故にあった男性がパナヒの運転するタクシーに運びこまれる場面があるが、その際、後部座席に血糊が付く。しかし、次の乗客がタクシーに乗り込む時には、後部座席から血糊が消えているのである。パナヒが運転中に拭き取った可能性もあるのだが、この映画の映像を素直に受け取るなというパナヒからのメッセージのようにも思える。

 この映画は、信号待ちをしているパナヒの運転するタクシーの前を、通行人が歩く様子を撮影したショットから始まる。そのショットには、フロントガラスの下のダッシュボードも映っている。フロントガラスの映像がカメラのフレームとの類似性を感じさせる。さらに、運転中、ダッシュボード上にあったカメラが乗客によって角度を変えられる。これもカメラの存在を意識させるショットである。『これは映画ではない』では最後にパナヒが自分でカメラを持ち撮影を行ったが、今回はタクシー(そこに備え付けられたカメラ類)が撮影機材となり、パナヒがテヘランという街と人々を撮影(運転)しているのだともいえよう。タクシー内のカメラだけでなく、パナヒのスマートフォン、姪っ子ハナのデジタルカメラ、パナヒの友人のタブレット端末、刑務所のカメラに至るまで様々な撮影機器が『人生タクシー』の中では登場し言及される。描かれた内容に加えて、それを誰がどのような意図で撮影するのかもこの映画ではかなり意識的に描かれている。少し話を先に進めすぎた。まずはこの映画の内容から見ていこう。

(b)内容面から考える

(b-1)「俗悪なリアリズム」とセンセーショナリズム

 映画の中で、映画監督志望の大学生が登場する。その大学生は様々な本を読み映画を見たが、題材がどうしても見つからない、とパナヒに言う。パナヒは、既に撮られた映画の中に題材を探してもだめだ、映画の題材はどこにでもある、とその青年に伝える。題材が見つからないのは、姪っ子のハナも同様である。ハナは、小学校で映画を撮影するという宿題が出て、その題材を探している。ただ、彼女は、既に存在する映画の中に題材を求めようとはせず、日常に起こったことをそのまま題材としようとしている。問題なのは、上映可能な映画の題材が見つからないということなのである。

 ハナは、先生から教わった上映可能な映画のルールをパナヒに伝える。「男女は肌を触れあわない」「善人の男性役はイスラム名を使用しネクタイをはめない」等々。権力による表現の自由の制限(リミテーション)だ。明示的ではないが、ハナは、自分が撮った映画の素材が「俗悪なリアリズム」というルールに引っかかるため上映禁止になったと考えているようである。「俗悪なリアリズム」とは、社会の醜い面(暴力、窃盗等)も美しい面と同じく平等に描くことでもある。

 ハナが撮影したという映像は、次のようなものだ。ある家へアフガニスタン人男性が求婚に来た。何の話も聞いていなかった父親は激怒し女性を家に閉じ込めた。男性はそれでも家の外で待ち続けた。その男性を親族が殴って追い返そうとしたが何度も彼は戻ってきた、という話である。この映像には、暴力が、おそらくは人種差別も写されてしまっている。確かにこの話がフィクションならば、「俗悪なリアリズム」という理由での上映禁止は問題であろう

 しかし、問題は別のところにもある。それは、ハナが実際に起きた事件の映像を上映することについて危うさを何も感じていないことだ。このような映像を学校で上映してよいのかという教育上の問題を措くとしても、この映像を上映することで関係者を、また男性自身をも傷つけることになるかもしれないという迷いがハナには全く見られない。もちろん告発の意味を込めて映像を上映することはあるだろうが、その時は覚悟が必要であろう。

 さらに、ハナは、結婚式でカップルが落としたお金を貧しい少年が拾う場面を目撃する。この場面は窃盗のため「俗悪なリアリズム」となり上映ができない。そこで、撮影した映像を上映できるようにするため、カップルにお金を返してきてほしい、とハナは頼むのである。映画上映のためのヤラセの提案である。最終的に少年はこの提案を拒絶するのだが、ハナはそれで不機嫌となる。

 小学生ハナの問題は、何を撮ってよいのか、何を上映してよいのかという内的基準がまだ存在していないことだ。つまり、内的な制約(リミテーション)が存在しないのである。一歩誤ると素材自体の魔力に負け、刺激の強い素材、センセーショナルな素材を求める危険性がある。パナヒは、外的な制約の問題点を描きつつも、内的な基準の存在についても同時に触れているのである。 

(b-2)映像とその所有者

 ハナが少年にヤラセを提案したシーンをもう少し詳しく見てみよう。ハナは、結婚式のカップルが車に乗りこむ場面を撮影している。すると、偶然カップルがお金を落とし、少年がそれを拾うところを彼女は撮影してしまう。実はこのシーンには別のものも映されている。それは、結婚式の様子を撮影するカメラマンである。そのカメラマンはカップルにずっとカメラを向けているが、少年の存在に気づきもしない。このカメラマンによって撮影された映像は、カップルにプレゼントされるものであろう。もしハナが少年にヤラセを行わせることに成功していたら、それはハナの映像となっていただろう。しかし、ハナの映像のためにヤラセに乗ることを、少年は「ヒーローになるよりお父さんにお金を渡したい」と言って拒絶するのだ。「敗者は映像を持たない」というのは大島渚の有名な言葉だが、映像は必ずその裏に所有者がいるのである。

 映画の最後の方で、バレーの試合を観戦したため服役している娘に面会に行った母親の話が出てくる。服役中の女性は抗議のためハンガーストライキをしているのだが、当局は、面会とバーターで、娘がハンガーストライキを行っていないと母親が述べる映像を作成するつもりだった。ハナのヤラセは可愛いものだが、社会的なヤラセとなると事態は深刻であろう。

(C)映画の演出から

 『人生タクシー』では、撮影に多大な制約があるため、作りこまれた映像はあまりない。使用されている映像は、デジタルカメラを始めとして私たちが通常使っている機器でも十分撮影可能なものだ。そのような映像を素材とし、それを文字通り「ハンドリング」することで、十分に面白い映画作品として仕上げている。私たちが撮影している映像そのままでは映画にはならず、映画が映画として成立するには演出や構成がいかに重要か、この映画を見るとその点を痛感する。

 演出の一例として、車への出入りの演出が挙げられる。ハナが少年にヤラセを提案した場面で、パナヒは一旦車を降りている。この演出によって、ハナのデジタルカメラの映像をよりハナしか知らないもののように見せる効果が生じている。この車を出入りする演出は、別のシーンでも威力を発揮する。パナヒが車の中で幼なじみと内密の話をするため、ハナが車を離れる場面がある。その幼なじみは実業家様でネクタイをはめている。彼は、自分が強盗の被害にあったこと、今乗っている車にジュースを運んできた男がその犯人であることを、タブレット端末に保存していた証拠映像を見せながらパナヒに説明する。しかし、彼は、その男が経済的に困窮していることを知っているために警察に訴えることができなかったとも言い、苦しい胸の内を吐露する。彼は決して悪人ではないだろう。彼が車を降りた後、ハナが車に戻ってきて、無邪気にイランで上映可能な映画では「善人の男性役はネクタイをはめていない」と述べる。内密の話を共有していないからこそできる発言である。この演出により、表現規制がいかに人間の本当の姿を映すのを困難にさせるか、映像として体感させてくれる。

(d)さいごに

 前編の記事において、『これは映画ではない』で、パナヒが自らに課された制約に強いられる形で<映画>から<映像>へと越境したと述べた。私は、『人生タクシー』で、パナヒは<映像>から<映画>へと越境したと考えている。パナヒは、直接的な言葉ではなく、私達も使用している撮影機材で撮影した<映像>を素材に演出、構成を駆使し、紛うことなき<映画>を作り上げた。

 制約があるからこそ芸術は輝くことがあるということをよく聞く。しかし、いつか、パナヒには制約なく劇映画を作ってもらいたいと切に願っている。

*1:なお、本記事を書くに当たって参考にした記事は次のとおり。最終アクセス日は、2017年12月9日である。

・「『人生タクシー』は“映画”ではない? 特異な表現を生んだ、イラン社会の現実」<https://beauty.yahoo.co.jp/enta/articles/776851>

・「森達也×松江哲明 “映画監督禁止令”受けるパナヒ監督の最新作「人生タクシー」を絶賛」<http://eiga.com/news/20170415/13/>

・ラジオ番組でのいとうせいこう氏の話(Youtubeで見てください。)

私の映画を見た直後の感想はこちら。

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