現在進行形の道徳的戦場へヤングアダルトを連れていく~梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』論(前篇)

 梨木香歩著『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、理論社ウェブマガジンで連載された後、2011年(平成23年)に書籍化された本である。(本稿では、岩波現代文庫版を使用する。本文括弧内のページ数は岩波現代文庫版のものである。梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫岩波書店 2015)

 タイトルからもわかるように、この本は吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を意識した本である。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

梨木はあるインタビューの中で『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、『君たちはどう生きるか』で提起された「どう生きるか」という問いへの「返事のような形」として生まれたと述べている。

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『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、『君たちはどう生きるか』へのどのような「返事」となっているのだろうか。本稿では『僕は、そして僕たちはどう生きるか』について、『君たちはどう生きるか』と比較しながら論じてみたい。

(1)『君たちはどう生きるか

最近、本屋に行くと『君たちはどう生きるか』が平積みされている。昨年出版された漫画版の売れ行きも好調のようである。

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 

 私も高校時代にこの本に挑戦したが、難しすぎて、また、実感がわかず途中で読むのを止めてしまった。

君たちはどう生きるか』は、『日本小国民文庫』という児童向け双書の中で「倫理」をテーマにした巻として、当時「哲学を勉強していた」吉野源三郎が執筆した。出版されたのは、日本が中国大陸に侵略を始め、軍国主義が社会に跋扈する1937年(昭和12年)のことである。吉野は、この本をコペル君というあだ名を持つ15歳の少年の日常のエピソードと、「大学を出てからまだ間もない法学士」のおじさんが書いたノートで構成している。吉野の中にはこの本を書き始める際、伝えたい内容(哲学的な主題)が頭の中にあっただろう。ただ、それを効果的に伝えるためにも、物語形式とする必要があると彼は考えた。この構成から、『君たちはどう生きるか』は、児童文学とも、児童向けの一種の人生読本とも読み取れる本となっている。

吉野が伝えたかった哲学的な主題とは何だったのか、おじさんのノートに書かれている内容から推測してみることする。そのノートでは、まず、自分を客観視すること(「ものの見方について」)や自らの経験を大事にすること(「真実の経験について」)の重要性が説かれる。その後、ニュートン万有引力の発見の話から「生産関係」という社会科学的(マルクス主義的というのが正確かもしれないが)概念に触れた後(「人間の結びつきについて」)、社会に抜き差しがたく存在する貧富の差について語られる(「人間であるからには」)。ナポレオンの生涯を通して歴史と英雄について考え(「偉大な人間とはどんな人か」)、後悔や罪責感という人間の負の経験の意味を伝える(「人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて」)。また、ノートという形式ではないがコペル君との会話の中で、インドのガンダーラの仏像がギリシャ人によって作られたエピソードを通して、文化には国境がないことが語られる。このようにおじさんが触れた主題を並べてみると、社会科学の要素が色濃く出ているものの、真善美という哲学の基本的な問題がバランスよく配置されているといえる。しかし、逆にとても教科書的な構成であるともいえるかもしれない。今回通読してみて、高校生の時の自分がこの本を読めなかった原因がわかった気がした。その当時の私には、どこか教科書を読んでいるような感じがしたのだろう。

では、コペル君のエピソードにはどのようなものがあるのか。最も紙幅が割かれているのは、「雪の日の出来事」である。漫画版でもこのエピソードを前面に出し、全体のストーリーをわかりやすくしようとしている。コペル君の友人の北見君が、生意気だという理由で上級生から目をつけられ、ある雪の日、私的制裁を受けてしまう。北見君の友人は皆殴られるときは一緒に殴られようという約束をしていたのにもかかわらず、コペル君だけは勇気がなく制裁の場に出て行くことができなかった。コペル君はこの日のことを後悔し、おじさんの助言を参考にしながら、北見君や友人に率直に手紙で謝った、というのがそのエピソードの内容である。

このエピソードから勇気を持つこと、誠実であることの重要性を読み取り、共感を寄せる読者もいる。

『君たちはどう生きるか』が大人に売れるワケ | ホウドウキョク

しかし、私はこのエピソードには違和感を抱いた。学校でこの私的制裁が問題とされたのは、北見君やその友人の親が学校に苦情に言ったからである。北見君の親は「予備の陸軍大佐」であり、水谷君という友人の親も大会社の社長である。ここで意地悪な想像をしてしまう。上級生の親がもっと社会的な影響力がある人だったら、学校はどのような対応を取っただろうか。この私的制裁を隠蔽した可能性さえあるのではないだろうか。

さらに、この本を読んで不思議に思ったのはおじさんの人物像である。哲学的な主題をわかりやすい筆致で解説するノートを読む限り、おじさんの博識は疑うべくもない。原作ではおじさんが何者かは全く描かれず、漫画版ではおじさんは編集者として造形され直されている。しかし、私は、おじさんの職業ではなく、彼があの戦争中どのように生きたのかに興味がある。軍隊に入った後、同じ部隊にいる者が私的制裁を受けるところを彼は目にしたかもしれない。そのとき、おじさんが上官に抗議できたかというと難しいのではないだろうか。

結局、私が『君たちはどう生きるか』に抱く違和感は、様々な面白いエピソードが紹介されてはいるものの、各エピソードが複雑さや矛盾に欠けている点、それゆえ現実の複雑さに対応できる「倫理」が提示できていないのではないかという点にある。『僕は、そして僕たちはどう生きるか』のある登場人物はこう語る。「でもさ、問題はもっと複雑だってことが分かってきた。そうしたら、何かだんだんよく分からなくなってきた」(p.151)。では、『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、どのように複雑な現実を描くのだろうか。

(後篇はこちらから)

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