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(月3回以上更新目標)

自由学問都市大坂

ノンフィクションマラソン41冊目は『自由学問都市大坂』です。ノンフィクションというよりは、思想の解説本に近いですが。

自由学問都市大坂―懐徳堂と日本的理性の誕生 (講談社選書メチエ)

自由学問都市大坂―懐徳堂と日本的理性の誕生 (講談社選書メチエ)

 

このような[水戸学的な]祭政一致的な社会統合論は、明治政府の国民統合の理念のなかにひきつがれている。天皇および朝廷の近代化は、国家神道の強力な整備とともに行われていくことになるのである。

この点で、はっきりと無鬼論を主張し、朝廷や天皇からも宗教的・呪術的要素をすべて洗い流そうとした懐徳堂の立場は、明治維新以後、現代までを通してみても、きわめて特異なものといっていいだろう。(p.145)

 この本は、18世紀大阪の知的潮流、特に懐徳堂界隈の思想家(富永仲基、山片蟠桃など)に焦点を当て、その思想的可能性を考察した本です。荻生徂徠古文辞学への批判、石田梅岩の心学への批判、上の引用にもある無鬼論がコンパクトにまとめられており、よき入門書となっています。

以下、素朴な感想ですが、やはり江戸期の思想は面白いですね。以前、『やちまた』を読んだときにも感じたのですが、西洋思想でポイントとなる点(例えば言語論)が既にテーマとされていたのだなあと感じました。また、今の我々の生活や日常道徳と儒教的な伝統とがどのように切り結ばれているのか、意外に気づかれていない結びつきがあるかもしれないなとも思いました。

tsubosh.hatenablog.com

 

苦海浄土

ノンフィクションマラソン40冊目は『苦海浄土』です。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

 

太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられなければならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れないが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。(pp.74-75)

苦海浄土』を初めて読んだのは十数年前でしょうか、読書会のテキストとしてでした。そのときは最後まで読み通すことができず、会の議論にもあまり加われなかった記憶が残っています。その議論の中で印象に残っているのは、多くの参加者が巻末にある渡辺京二の解説に賛辞を呈していたことです。

苦海浄土』を手に取り改めて再読し始めたところ、作品冒頭すぐにある「細川一博士報告書」の箇所で躓きました。報告体の文章がそのまま長文引用されていて面食らったのです。ペースを乱されるというか、正直、何でこんなことをするのか怪訝にも思いました。『苦海浄土』では、当時の医学雑誌、新聞記事からの引用が繰り返し行われています。私は、途中から、これはかなり意識的に行っているのではないかと思うようになりました。これらの<近代>的な叙述があることで、その対極にあるともいえる<前近代的>な共同体の記憶を濃密にはらんだ朴訥な語りがより響いてくるのです。

渡辺京二は、解説で『苦海浄土』を「石牟礼道子私小説」と捉えています。この解説は気合が入っていて説得的です。ただ、私は、近代的な叙述から水俣病患者の方の声なき声まで、石牟礼道子が幅広い<声>を聴いた聞き書きと書しての側面に興味を持ちました。

ノモンハンの夏

ノンフィクションマラソン39冊目は『ノモンハンの夏』です。

ノモンハンの夏 (文春文庫)

ノモンハンの夏 (文春文庫)

 

ノモンハン敗戦の責任者である服部・辻のコンビが、対米開戦を推進し、戦争を指導した全過程をみるとき、個人はつまるところ歴史の流れに浮き沈みする無力な存在にすぎない、という説が、なぜか疑わしく思えてならない。そして、人は何も過去から学ばないことを思い知らされる。(pp.451-452)

 日本のノンフィクションの一大ジャンルにアジア・太平洋戦争をめぐるものがあります。そして、それぞれの作品には、それぞれの「観点」と呼べるものがあります。

ノモンハン事件 - Wikipedia

この『ノモンハンの夏』は、ノモンハン事件(ウィキのページの情報量が凄い…)を3つの観点から描いています。1つ目の観点は独ソ不可侵条約の締結の経緯など国際的関係の視点です。これは鳥の目ともいえるでしょう。2つ目の観点は現場の戦争の視点です。これは虫の目です。この本が重視するのは、3つ目の中間的視点、陸軍参謀本部関東軍の参謀たちといった、いわば「中堅エリート」の視点です。彼らが持っていた先入見、野心、責任逃れがいかに悲惨な結末を招いたかについて、時々主観的なコメントもはさみつつ、筆者は記述します。

この本から、私は組織にとって「優秀な人」とはどんな人なのだろうかということを考えされました。積極的(強硬)で、弁が立ち、最終的には無責任な人が評価されてしまう風土は、まだこの社会に根深く残っているのではないでしょうか。

「エクス・リブリス」へのちょっとした違和感

話題の映画「エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館」を観てきました。

moviola.jp

フレデリック・ワイズマンはずっと昔に1本観た限りでした(確か「メイン州ベルファスト」だったと思いますが詳しくは覚えていない…。)。ナレーションを排する「ダイレクト・シネマ」という、ドキュメンタリー映画の一潮流を代表する映画作家ということしか頭にないほぼ白紙の状態で作品を見ました。

yutabou85.hatenablog.com

ネット上の批評を見ると賞賛の声が多く、私も勉強になったシーンも多かったのですが、少し違和感も感じました。ここで、多くの人と同様に面白かった点を書いても新鮮味に欠けるので、違和感の方について書いてみたいと思います。

違和感は、この映画の中における言葉の布置関係ともいえるものに関わります。

映画の中で、何度も幹部会議が開かれ、図書館政策について議論が交わされる様子が記録されています。そして、各分館で、図書館職員が利用者に向かって各図書館サービスについて説明する様子も記録されています。加えて、様々な著名人(エルヴィス・コステロパティ・スミスなど)の講演の様子も紹介されています。

彼らの発言は、多様な価値観の共存と社会的平等を求めるリベラルな価値観を基調としており、傾聴に値することは間違いないでしょう。しかし、私は、映画の中で「誰が話しているのか」という点が気になりました。

図書館の幹部や文化人は、日常的に語る人、言葉を持っている人です。この映画に出てくる人は、総じて雄弁です。対して、ベルトコンベアに乗った資料を仕分けする職員や、資料をデジタル化している職員も写されますが、彼らは無言です。現実の「語る人」「語らない人」の構造が、映画の中で再生産されているのではないかと感じました。ワイズマンは、黒人文化研究図書館についてのシーンを複数入れるなど、社会的なマイノリティの問題について意識的であるとは思います。ただ、映画内の構造の問題として、上記の問題があるのではないかと思うのです。

通常のドキュメンタリー作品であれば、被写体にインタビューを試みるなど、撮り手側の関与があります。しかし、ワイズマンは全く被写体に関与せず、撮影した画像と編集だけで、彼が捉えた図書館を見せていきます。言葉を持っている人の映像が多くなったことで、ニューヨーク公共図書館の「理念」的側面はよく見えるようになった反面、そこで働く多くの人の「本音」にどこまで迫れているのかなと思いました。

 これは私が「観察映画」的なものを見慣れていないゆえの感想かもしれません。全体として傑作だと思うので、まだ観ていない方は是非劇場に足を運んでください。DVD化されるかもわかりませんし。

近況報告(2019年5月)

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5月は10連休があったため、「一息つけた」という感じがありました。浜松、名古屋、大阪、京都、(昨日6月1日ですが)浦安と、出不精な割には色々足を運びました。上は浜松駅前の画像ですね。

浜松、大阪、京都では旧交を温め、名古屋では友人に誘われライブに行きました。浦安では「うらやすドキュメンタリー映画祭」で2本映画を見てきました。浦安は本当に平らな土地ですね。歩いていて全く起伏がない感じがしました。

仕事でも勉強でも、インプットが本当に足りないなと思っています。インプットを意識的に増やしていかないとなと考えています。