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(月3回以上更新目標)

実学上等!

前回のエントリ書いてから、いろいろ考えていました。

このブログの方針としては、あまり人を批判せず、ある特定の個人・作品を論評する場合、その方のなるべく高い「鞍部」を捉えたいと思っています。

内田さんのエントリを読み返してみて、ゼミ生の方との信頼関係があれば、特に問題ない気がしました。私の問題意識によって読解が多少ずれてしまったかもしれません。(ちなみに内田さんは、カミュ論が斬新でした。ああいう読みをする人にはまだ出会ったことがありません)

高等教育をめぐる制度設計とその制度のなかで生きる教官・学生の、ホンネ・タテマエ入り混じった、制度運用の現状については、ここでは一端おくとしましょう。

たぶん、私が違和感を感じているポイントは、非実学系(人文系?)の保護貿易主義なのです。なぜ自らの学問を守るため、保護貿易を行うかごとく、権力作用を発動させながら、自らを守ろうとするのか。

職業教育、いいじゃないですか。どしどし大学に導入すれば。学生はオプションが増えるわけですし、何がまずいのでしょうか。

確かに職業教育的な科目に、学生の人気が集中し、一般社会の価値観に「堕した」存在に、大学はなってしまうかもしれません。(現状でも既にそうなっている気がしないでもないですが…)ここは考えどころで、中世の大学のように俗世から離れた学究の場として、大学を定義づけることも、理屈上は可能でしょう。(現状はユニバーサル段階に達していますが…)

しかし一般の社会的な価値観の流入は、非実学系にとって、腕の見せ所でもあるのではないか、という考えをぬぐい去れないのです。

実学上等!」という気概で、「実社会に役立つとされる」学問で紹介された知見を踏まえつつ、もっと広い視野で、もっと深い思考を、大学内で展開されてはどうでしょう。また大学内に知見を広めるだけでなく、一般社会にも広く知見を公開し、存在感を出したらどうでしょう。(一般にこれを「アドボカシー」といいます)

確かにこの提案は、学生や学問の可能性にかけた提案です。理想論にすぎるかもしれません。しかしこれ以上、現状のパターナリズムにのっとった理想論は、限界があるのではないでしょうか。(「学生はかくあるべし、そのため保護し、教育を授ける」といったような言説です)