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「エクス・リブリス」へのちょっとした違和感

話題の映画「エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館」を観てきました。

moviola.jp

フレデリック・ワイズマンはずっと昔に1本観た限りでした(確か「メイン州ベルファスト」だったと思いますが詳しくは覚えていない…。)。ナレーションを排する「ダイレクト・シネマ」という、ドキュメンタリー映画の一潮流を代表する映画作家ということしか頭にないほぼ白紙の状態で作品を見ました。

yutabou85.hatenablog.com

ネット上の批評を見ると賞賛の声が多く、私も勉強になったシーンも多かったのですが、少し違和感も感じました。ここで、多くの人と同様に面白かった点を書いても新鮮味に欠けるので、違和感の方について書いてみたいと思います。

違和感は、この映画の中における言葉の布置関係ともいえるものに関わります。

映画の中で、何度も幹部会議が開かれ、図書館政策について議論が交わされる様子が記録されています。そして、各分館で、図書館職員が利用者に向かって各図書館サービスについて説明する様子も記録されています。加えて、様々な著名人(エルヴィス・コステロパティ・スミスなど)の講演の様子も紹介されています。

彼らの発言は、多様な価値観の共存と社会的平等を求めるリベラルな価値観を基調としており、傾聴に値することは間違いないでしょう。しかし、私は、映画の中で「誰が話しているのか」という点が気になりました。

図書館の幹部や文化人は、日常的に語る人、言葉を持っている人です。この映画に出てくる人は、総じて雄弁です。対して、ベルトコンベアに乗った資料を仕分けする職員や、資料をデジタル化している職員も写されますが、彼らは無言です。現実の「語る人」「語らない人」の構造が、映画の中で再生産されているのではないかと感じました。ワイズマンは、黒人文化研究図書館についてのシーンを複数入れるなど、社会的なマイノリティの問題について意識的であるとは思います。ただ、映画内の構造の問題として、上記の問題があるのではないかと思うのです。

通常のドキュメンタリー作品であれば、被写体にインタビューを試みるなど、撮り手側の関与があります。しかし、ワイズマンは全く被写体に関与せず、撮影した画像と編集だけで、彼が捉えた図書館を見せていきます。言葉を持っている人の映像が多くなったことで、ニューヨーク公共図書館の「理念」的側面はよく見えるようになった反面、そこで働く多くの人の「本音」にどこまで迫れているのかなと思いました。

 これは私が「観察映画」的なものを見慣れていないゆえの感想かもしれません。全体として傑作だと思うので、まだ観ていない方は是非劇場に足を運んでください。DVD化されるかもわかりませんし。