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(月3回以上更新目標)

2019年10月初旬報告(記事補足)

皆様、元気ですか。私は病気で寝てました。

先週水曜日夜に、突然、悪寒がしたと思ったら、39度の熱が出て、土曜日までずっと寝てました。そんな中、ブログのアクセス数が急に増えていることがわかったのですが、木曜日・金曜日と朦朧としており、やっと諸々確認できたところです。(このブログの1日の平均アクセス数は数件なのですが、木曜、金曜のアクセスは100件を優に超えていて、ヤバい、何かやらかしたのかとも思いました。)

tsubosh.hatenablog.com

 『在野研究ビギナーズ』(以下『在野~』といいます。)の記事が読まれたらしいのですが、私のしょうもない記事はともかく『在野~』自体を手にとってもらえるきっかけになったらよかったなと思います。

以下は、前回の記事のちょっとした補足になります。

まず、リアルな私を知っている人には言わずもがなのことですが、大学院時代に私と出会った人は、皆さんよい方ばかりでした。その分、制度や環境については、何とかならないのかなという気持ちはずっとありましたね。また、学会でのコミュニケーションが権威主義的だったと実例も挙げずに書いてしまったのですが、改めて振り返ると、感覚的にダメだった以外の具体例が出てきません。少し書きすぎたかもしれません。抽象的な文言になるときは要注意です。(しかも、1度ではなく2度、学会に顔を出したことも思い出したのですが、回数間違いをするくらい記憶から抜けてしまっています。。。)

そこで、学会とは違う場面とはなりますが、院生当時感じていたコミュニケーション上の問題を書いて補足としたいと思います。それは、当時、教員(学会含む。)に自分の未来を握られている感覚や、それに伴う心理的な忖度に対する恐怖感があったなということです。

当時、研究分野に限らず複数の人から聞いた発言で「教員と近い見解だと評価される」というのがありました。学問的に全く意味がわからない発言で、始めは何を言ってるんだかと思っていたのですが、途中から本当の話なのかもしれないと思い始めてしまったのです。そもそも、こんなことは、証明しようにもできないことです。仮にそうだとしても、誰も明確にはそんなことは言わないでしょうから。

この場合、怖いのは、そっと自分の思考を変えてしまうことです。仮に教員の見解に分があるにせよ、自分なりの思考を展開しきちんと間違っておくということは重要なことだと考えています。そのような契機をなくし、そっと「正解」を先取りするような行為はよくないと考えていました。その「正解」が本当に正しいかどうかを捉えなおす作業こそがとても重要なのですから。

今、このような恐怖感を抱いた自分を幼かったなと思います。どのような環境であろうと、自力で自分の道を切り開く気概を持つのが大人です。また、そもそも私を指導してくれていた方は見解を押し付ける人ではありませんでした。少し過剰反応しすぎていたとも思っています。『在野研究~』に、法哲学の領域では「父殺し」を行うことが一人前の研究者になるために必要であるという記述があったかと思いますが、もしこれが事実なら、研究生産のための隠れた機能として、制度的観点から優れているなとも感じた次第です。(もちろん、何かしらの逆機能もあるとは思いますが。)

十数年という時間も経ちました。悪口書いてくさしたいわけでなく、昔、こんな情けないことを考えていた人間がいたというのが、将来誰かの参考になればと思っています。また、今、すごい努力をしている「在朝」の研究者(私も数人知り合いがいます。)には尊敬の念しかないです。

さて、昔話はこれでおしまい。しょぼいアウトプットをまれに出しているだけのコンテンツですがよろしくどうぞ。