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私たちはどこにいるのか?

ノンフィクションマラソン71冊目は、ジョルジョ・アガンベンの『私たちはどこにいるのか?』です。

ジョルジョ・アガンベンは、イタリアの哲学者・美学者です。今回紹介する『私たちはどこにいるのか?』は、コロナ禍に関するアガンベンの論文・インタビューを集めた本です。

アガンベンは、コロナ禍の下、国家が、公衆衛生上の安全のため、個人の自由を制限していることを強く批判します。さらに、コロナ禍が国家権力によって作られた危機であるというところまで主張を展開します。

当初、私は彼の主張にも一定の妥当性があると考えていたのですが、彼の文章を読み進めるうちに、イライラしてしまい、最後には少し怒りに近い感情まで抱いてしまいました。何にいらだってしまったのか。順を追って説明していきたいと思います。

(1)思考に「度合い」というものが欠けている

この本の中に「15 学生たちに捧げるレクイエム」という短い記事があります。

アガンベンは、大学の授業がオンライン化されたことを激しく批判します。教員と学生が、また学生同士が交流し合うことこそが、大学の意義であると主張するのです。そもそも「大学はヨーロッパにおいては学生組合-ウニウェルシタス-から生まれ、大学(ウニヴェルシタ)という名はそこに由来して」おり、このコロナ禍によって「生活形式としての学生団体が終わりを迎える」という彼の危惧は正当なものだと思います。

ただ、そこから、アガンベンは、突如、オンライン化に協力した教員は、1931年にファシズム体制への忠誠を誓った大学教員と同じだ、けしからんと断罪するのです。

この論の展開に、私は「え?」と声を上げてしまいました。大学教員の多くは対面の重要性を理解しているはずです。健康上のリスクを考え、泣く泣くオンライン授業とした教員が多いのではないでしょうか。断罪せよとまで主張するならば、健康上のリスクに関する議論を丁寧に展開した上で、大学教員の判断ミスを責めるべきでしょう。ただ、そのような話は全く出てきません。

この議論で、何が起きているのでしょうか。補助線として、アガンベンのコロナ関連の言論を擁護した記事を見てみましょう。

www.repre.org

この記事の内容自体は参考になるのですが、アガンベンの言論を考える際の問いの立て方、角度がずれていると考えています。アガンベンの主張は「間違っている」から問題なのではなく、「足りていない」から問題なのです。

例えば「移動の自由は間違っているのか」という問いに、全員が間違っていないと回答するでしょう。だからといって、運転免許制度を廃止すべきであると言われたら、全員がちょっと待ってくれとなるのではないでしょうか。自由と制限はセットで考えるべきものであり、制限を考えない自由の議論は具体性を欠くのです。

今回の記事では深堀りを避けますが、『ホモ・サケル』や『例外状態』という彼の著作を読んだ際、極端から極端に振れる、いわゆるゼロヒャク思考の癖があるなと感じました。ただ、今回のコロナ関係の言論では、もう1つ別の隠れた前提がアガンベンの議論に影を落としていると疑っています。それは、彼が「足りていない」言論で「なければならない」と決意している、また「具体的に考えてはいけない」と自らに言い聞かせているおそれがあるという疑いです。

(2)政策論は権力者の思考?

訳者の高桑氏が解説の中でこのようなことを書いています。

アガンベンの説を紹介した後…(引用者注))何らかの有効な代案が具体的に提示されているわけではない。「統治する側に成り代わって考えることはしない」「無法や暴政に対して代案を立てて相手の土俵に乗ることはしない」という一貫した姿勢の現れだとして評価することは可能だろうが(とりわけ危機が訪れると、少なからぬ人がなぜか施政者の立場から物事を考えてしまうというのは奇妙な事実ではある)、それにしても納得の行かない読者は少なくないだろう。

解説のこの箇所には目を見開かされました。

政策論は権力者がやるべき仕事であり、被統治者が政策を論じるのは相手(権力側)の土俵に乗ることだということをアガンベンが考えているとしたら、刻々と移り変わる現実とかみ合わなくなり、壊れたレコードのように、個人の絶対的自由を主張し続けることを止める契機がなくなります。対案を出せというのも暴力的な発言なのですが、対案も全く出すべきでないというのも堕落なのではないでしょうか。また、そもそも、民主主義国家では、統治者と被統治者はどちらも国民ですよね。

誤ったというよりかは、偏った思考上の自己拘束が、立論のいびつさに影響している気がします。

(3)結局のところ…

(1)で「度合い」という言葉を使いましたが、結局のところ、アガンベンは相矛盾する様々な要素の中で真剣に悩んでいないのです。たとえば、「コロナが危険な感染症であったら」というifを入れるだけで、考えなければならない事柄が増えます。そのような思考実験を行うそぶりさえ見せないのは、いかがなものかと思います。また(2)の前提をもっていたとしても、哲学者としてはその前提がどの状況のどこの段階まで妥当するのかを反省的に思考する必要があるのではないでしょうか。

 

自分自身の思考を汎用的な構えとし、現実の矛盾に真摯に向き合おう!
アガンベンを散々批判してきましたが、上に書いたことは、自らへの戒めともしたいと考えています。

Kindle版で読んだため、引用箇所をうまく明示できていません。だが引用箇所は追えると思います。