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「生きる」という権利

『「生きる」という権利 〜麻原彰晃主任弁護人の手記』(安田好弘 講談社)を読みました。

良質のドキュメンタリー映画をみている感じがしました。安田は検察が作り出すストーりーを、ファクトをもとにことごとく覆していく。しかし、多くの場合、真実のストーリーにたどり着くことはない。証拠が消えていたり、権力が介入したり、被告人自体が自罰的な性格のため検察のストーリーを受容するからです。

例えばあの麻原はサリン事件の主犯ではないと安田は考える。ファクトの積み重ねから、安田は以下の分析を導き出します。

そこには、教団内での力関係や、幹部一人一人の個人的な思惑が微妙にからみあっている。地下鉄サリン事件は、こうした背景のもとで起こった。自分たちのしでかしたミスをどうやって挽回するか。考えあぐねた信者が、焦って引き起こした事件であって、『国家転覆』とか『首都圏テロ』となどいう動機はなかった。教団には共同体意識があり、崇拝する対象も行動すべき規律もすべて用意されている。非常に生活しやすい場である。他方で、どうやって認められる存在になるか、自分の存在をアピールできるかという競争社会でもある。閉ざされた共同体であるため、イメージはとめどなく肥大化していく。(p.79)

読んだとき、この線はあると思いました。つまり麻原がサリン事件を命令したのでなく、真実は麻原に認めてもらうために、信者が自発的に行ったというストーりーかもしれないと安田は考えるのです。しかし、麻原は精神障害となり、実行責任者と安田が考えている者は、検察のストーリーに完全に乗っている、真実のストーリーは解明されないまま、忘却へと落ち込んでいく…ということもあるかもしれません。