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じゃーお前やってみろよ

ずっと思っていたこと

人から「とても従順ですよね」といわれることが多い。でも心のなかでは「違うよな、これ」って思っていることが多い。「違うやろ」とばっと、めんとむかって言える人もいる。すると必ず「じゃーお前やってみろよ」ということになる。そういう場合のハードルというのは、概して高いことが多い。また「違うな」と思っても、その思いに対する疑惑、たとえば相手の論理も一貫していて間違っているというわけじゃないなーとか、自分の能力ではこの案件は。。といった事情から声を出さないでいることがある。すると会話相手は、僕の思いに気づくはずもなく、何に迷ってるんだ、早くやれ!ということになる。(ただすごく恵まれたことに、対話相手でこのやろーという相手は今までいなかった)

人が主体的に生きるためには哀しいかな、力が必要なのだ。違うよだけ言い続けるのみでは何の意味もない。「違うよ」の「違い」を形にして、成果としてみせなければならない。毀誉褒貶の激しい研究者だけど上野千鶴子が「文句があるんだったらお前が代わりにやってみろ、といわれたときにその場に立てないと困ります」(『Diatext02』京都芸術センター)は正しいと思うし、これを言える上野はえらいなとつくづく思う。

大学院時代からかわらないなー。僕は。