本当にお世話になってる友人より、
ルネ・デカルトの『方法序説』について
「我思うゆえに我あり以降の部分から、
突然、神がいることになってしまうところの論理展開が
まったく理解できないんですけど、わかりますか」
という質問がきました。
実は、この箇所、私も初読の際、全く理解不能でした。
というより『方法序説』は
なんて退屈な哲学書だと考えてもいました。
その後、いろいろ学ぶなかで、
わかったというにはほど遠いですが、
『方法序説』をこういう形でつかめばよいのかな
私なりの「読みの角度」というのができました。
そこでまず私の「感じ」(読みの角度)を掴んでいただこうと思います。
うまく他人の「感じ」さえつかめれば、あとはそれを軸に自問自答しつつ、
自分なりの読みを作り上げていくことができます。
では以下、少し長くなりますが、お付き合いください。
またかなり学問的正確性を犠牲にして話します。
あしからず。
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【準備作業1】神は私たちを支える存在である
まず思いきって、中学校3年生に帰ります。
中学校3年生の時に、基本的人権というのを習ったかと思います。
基本的人権というのは、人は生まれながらにして、
生きる権利、言論の権利などを有するというものです。
では「基本的人権がなぜ人にある」といえるのでしょうか。
問を言いかえましょう。
「基本的人権を正当化する論理とは何でしょうか」。
まずここが躓きの種となります。
多くの日本人は、基本的人権は無根拠なフィクションだと考えているのです。
しかし私は西洋ではフィクション以上の重みがあると考えています。
それが「自然法」という考えに表されています。
ただ「自然」ということばに騙されてはいけません。
「自然法」は、
「事物の自然本性(英: nature)から導き出される法」
というものです。人工と対比される自然ではありません。
基本的人権は、まさに自然法によって、「事物の理」として、
誰にでも備わっているものであるという論旨展開となります。
実は、この自然法は、神の法に近いものなのです。
自然法の力の源泉は神にあるのです。
Wikipediaからですが、下に貼り付けておきます。
「神が人間の自然本性の作り手として想定されるとき、
自然法の究極の法源は神となる。」
つまり基本的人権を巡る思想構造は、
下記のようなものとなっているのです。
<神>
→<自然法>=神の世界のルール
→(自然法によって支えられる)<基本的人権>
一応、Wikipediaの人権の解説部分も貼り付けます。
「かつては、人権の根拠は自然法つまり神(宗教的権威性)に求められていた。
しかし、世俗主義の民主主義国家において
特に日本においては人権そのものが根拠・命題と
自然法論では主張される(トートロジー)。」
「神が私たちを支えているという発想がある」のだと
いう点がまずポイントです。
【準備作業2】神は理性のディストリビュターである
神は私たちをささえているだけではありません。
私たちを作ってさえいる存在なのです、
神というと、日本では教会で、
祈りを捧げる存在に思えるかもしれません。
つまり内面的信仰の対象であるというイメージがあるかと思います。
確かに西洋思想でもその系譜はあります。
(たとえばキェルケゴールなどはそうです)
しかし西洋思想では、もう一つ、
神が理性のディストリビュター(分配者)であるという考え方があります。
これはキリスト教の人間観とも深く関係します。
人間は「理性」(霊)と「感性」(肉)でできており、
「感性」は堕落の象徴で、神から与えられる「理性」こそが
人間が人間であるための証となるものだという考えです。
人間は自らのうちに理性を持つことで、
動物から自らを区別することができるのです。
神は動物に理性を吹きこみ、
それが人間になるという考え方があることが
2つ目のポイントとなります。
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この2つの準備作業で伝えたかったことは、
デカルトを読む際にも、キリスト教の思想的枠組みを、
理解しておかないといけないということなのです。
有名なコギトの発見も、全体としては、
キリスト教的思考構造の枠組みのなかで行われているのです。
キリスト教自体を疑う試みは、サドなどを除けば、
19世紀のニーチェの登場まで行われないのではないかと思います。
では実際に『方法序説』を読んでいきますが、
論理的整合性よりも、デカルトがなぜこういう記述をするかの
推理を行う感じで、神の存在証明の箇所を読んでいきましょう。