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(月3回以上更新目標)

ノンフィクションマラソン38冊目は『牙』です。

牙: アフリカゾウの「密猟組織」を追って

牙: アフリカゾウの「密猟組織」を追って

 

人間の欲望は動物の生命や尊厳をどこまで弄べるのか(p.196)

 この本は、東アフリカ・南アフリカでの象牙密猟を扱った本です。本の主題は、当然、象牙密猟に対する批判ですが、それだけではなく、もう少し広い視野からこの問題を扱っている本だと思います。

私は、この本の良さは、「光」と「影」のコントラストにあるのではないかと考えています。「影」とは、腐敗するアフリカ各国政府、おそらくは象牙密売に深く関与しているだろう中国、そして国内の利害に振り回され国際的な象牙売買の禁止という潮流に乗り遅れる日本、それぞれの関係者の欲望です。これらの欲望が重なり合い、多数の象が顔をえぐり取られ象牙が密売に出されるという悲惨な結果を生み出しています。

しかし、この本では、アフリカの自然の雄大さや、子供を大切にする象の生態なども同時に触れられています。筆者がアフリカの自然に惹かれていることがわかります。これらの記述がいわば「光」源となり、「影」、人間の欲望のどうしようもなさがよりクリアに浮かびあがっているように思うのです。

強制不妊

強制不妊――旧優生保護法を問う

強制不妊――旧優生保護法を問う

 

 この本は、旧優生保護法による強制不妊手術に関する毎日新聞のキャンペーン報道をまとめた本です。旧優生保護法の成立経緯、障害者運動やフェミニズムとの関係、公文書管理や情報公開の在り方に至るまで、多数の関係者の証言が紹介され、旧優生保護法が社会に与えた傷跡について検討されています。

この本では、複数の記者が参加することにより、様々な観点から多角的に事象が捉えられています。組織ジャーナリズムの良質な点が出ているのではないかと思いました(一方、手に取ったのは初版なのですが、少し誤植が見受けられました。少しもったないなとも思います。)。

特に印象に残ったのは、次の引用の箇所です。この問題の難しさがここからもわかります。歴史に<落とし前>をつけることはどのように可能なのだろうかと考えてしまいます。

なぜ、優生保護法成立以降の人権侵害の実態が70年にわたって闇に埋もれてきたのか。なぜ、不当な手術を受けて人生を台無しにされた当事者による裁判に起きなかったのか。答えは、強制不妊の対象にされた多くが、我が身に起きたことすら知らず、思うように自分の考えを伝えることができない由美のような障害者だったからだと路子は確信している。(p.45)

※由美、路子は、本の中で使用されている仮名である。

【ショート書評】アドルノ「文化批判と社会」を読み直した

文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語りだす認識を侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に飲み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。(p.36)

プリズメン―文化批判と社会 (ちくま学芸文庫)

プリズメン―文化批判と社会 (ちくま学芸文庫)

 

 アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮であるアドルノの非常に有名な文章である。この文章は、『プリズメン』という彼の評論集の冒頭に収録の「文化批判と社会」という論文の最後のあたりに出てくる。私事で恐縮だが、この論文を私は大学時代に読んだのだが全く歯が立たなかった。(ちなみに、大学のゼミで『プリズメン』所収のシュペングラー論を担当したのが、これも散々な出来で教員にあきれられた記憶がある。)二十年以上が経ち、実家に帰省した際、何故か気になり、ふと手に取って再読してしまった。

「文化批判と社会」は論理が錯綜しており、論文の流れに沿って要約するだけだと何が書かれているのか分からなくなってしまう。そこで、この記事では思い切って彼の議論を図式化し、私なりに彼の主張を語り直してみたい。そして、最後に少しだけ私見を述べることとする。

1.「文化批判」への批判

読み始めていきなりつまずくのは、「文化批判」(Kulturkritik)という用語だ。この用語は論文の中で明確に定義づけられているわけではないが、論文全体の文脈から、まずは「文化(作品)を批評する行為」という意味と考えればよいと思う。このブログでも本や映画についていろいろ感想を書いているが、これらの行為も「文化批判」の一環として位置付けることができるだろう。しかし、論文の中で考察されているのは、あくまで職業的批評だと考えられる。

アドルノは、「文化批判」者(具体的には「批評家」だろう。)の来歴を記述する。市民社会勃興期、精神的自由と経済的自由が手を携えていたように見えた時代に、文化の動向を伝える「ニュースキャスター」や文化商品流通の代理人という職業が誕生する。彼らはその後、専門性を増し、文化作品を観照、審判する批評家となる。しかし、自由競争社会である以上、彼らは市場での評価に依存する存在としてしか存立しえない。

時代が下り、自由競争の時代から後期資本主義の時代に移る。社会の「合理化」、「行政化」が進み、社会関係が網の目のように張り巡らされ、社会が「匿名の制御」に服すかのように動く。人々はマスメディアなどが流す画一的価値観に染まり、経済的自由の前に精神的自由は自壊していく。批評家は、自由な精神で作品を観照・批評する外観を装うが、「匿名の制御」に突き動かされる社会では、精神的自由という概念自体が疑わしいものとなってしまう。

アドルノはこのように批評家の来歴を捉えた上で、彼らの問題点を指摘する。それは、彼らが社会構造(物質的生活過程)の中で文化を捉えていないという問題点である。それどころか、批評家は、文化領域と物質的領域を切り離し、文化の純粋性を維持しようとする。しかし、批評家は、純粋な文化というだけでなく、商品としての文化(「文化財」)を扱っている側面がある。そして、批評家自身も市場の中で生き抜いていかなければならない以上、社会の体制的な価値観から距離を取ることが困難でもある。

このように、アドルノは批評家の限界を指摘する。ここまではよく聞く話ではないだろうか。しかし、アドルノはここで留まらず思考を先に進める。 

2.「出口」はどこにある?

全体主義的政治体制の二つの変種は、文化そのものが従僕の身分にあっても究極的に反抗的性格を持つと思っていて、既存の体制をそこから守りたいと思っている。(p.22)

 アドルノは、文化(文化批判)への批判を展開した勢力が2つあると考える。それは、ナチズムとソ連社会主義である。

ナチズムは、文化に幻惑されているが、自らが良しとするものを批判する批評に対しては、徹底してサディズム的態度を取る。ナチズムは、批評家の精神的自由や社会的自立が、実態を伴わない「欺瞞」であることを見越している。ナチズムはそのような「嘘」を正す「革命家」、「文化の医者」として自らを位置付ける。一方、ソ連型の社会主義は、文化を、下部構造(物質的生活過程)を反映したものに過ぎないと考える。このような考え方の下では、資本主義社会の文化は全て誤りであり、社会主義社会の文化は全て正しいことになってしまう。結局のところ、党公認の文化作品だけが認められることになり、個別の作品が持つ差異は消えてしまう。

1で見たように、アドルノは文化批判を批判した。しかし、現実社会で「文化批判」を批判したナチズムとソ連社会主義は、文化批判よりも遥かに問題が多いものであった。アドルノは、ここで一旦、文化批判に帰り、彼自身の批評を組み立て直す。それは、文化(批判)が持つ現実「批判」的な側面を評価しつつも、文化批判が等閑視していた下部構造(物質的生活過程)も射程に入れた批評を構築しようとするのである。さらに、社会主義が文化を全面肯定・全面否定するのとは異なり、個別の作品に向き合い、作品自身が持つ限界を含めて明らかにしようとする。この批評の方法を、アドルノは「内在批判」と呼ぶ。

内在批判にとって成功したといえるのは、客観的諸矛盾を欺瞞的に調和させ融和する形象というよりも、むしろ諸矛盾を純粋に、頑として、自己の最内奥の構造に刻みこむことによって、調和の理念を否定的に表現するような形象である。(p.32)

「文化社会と批判」は論文集の冒頭にある論文である。この論文で方法論を語り、以降の論文で、実際に具体的な作家や作品について論じていくことになるのである。

3.感想

まず、とても日本語が読みづらい。かなり読むのがきついです。例えば始めに引用した「そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語りだす認識を侵食する。」という箇所、日本語としておかしくないでしょうか? あと、アウシュヴィッツの有名な箇所の文章も、日本語訳を読む限り、かなり唐突に出てくる感があります。

 ただ、否定に否定を重ねながら、何とか出口を見つけようとする彼の思考の方法は興味深かったです。たとえば、昨今、アカデミズムはダメだという議論があります。しかし、アカデミズムを壊そうとする最近の経済的論理は輪をかけてダメなものでしょう。全面肯定できる足場がない中で、あれはダメだ、これもダメ、しかしなんとかしなければ、と出口を探ろうとする思考の動きは興味深いものがありました。

近況報告(2019年3月下旬-4月報告)

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ご無沙汰しています。相変わらず自宅と職場の往復が続いていました。こういう状態だとなかなか書くことが見つからなくなります…。10連休となり一呼吸つけるのかなと思っています。たまっていた諸々のことを片付けていきたいと考えています。

昨日は、気分転換に東国三社(鹿島神宮香取神宮、息栖神社)へ行ってきました。上の画像は鹿島神宮の御手洗池の画像です。最近、おみくじを引くと大吉が多いです。よい傾向かも。

インタビュー

久しぶりの更新です。ノンフィクションマラソン36冊目は『インタビュー』です。

インタビュー

インタビュー

 

ノンフィクションは、単に文献調査をするだけでは面白い作品にならないことが多いのではと私は考えています。様々な取材やインタビューを通じて得られた生の声を交え、物事を立体的にとらえることで、初めて臨場感が出てくる場合が多いと思うのです。

この『インタビュー』という本は、インタビューを生業とする筆者が、自身の経験を基にインタビューの可能性について語った本です。記述が行ったり来たりし、正直、私が好む文章ではありませんでした。しかし、時々、はっとさせられる考察が出てきます。(実は、朝日カルチャーセンターでの著者の講座に出ているのですが、同じような経験をよくします。)

そして、ここからが私としては地域性の差として私的に重視していることなのだが、社会におけるさまざまな意味での暴力にしても、日本の場合には、表面的な言動としては一見おとなしく見えるのでわかりにくいままになっていて充分に語られていない面が多々ある。(…)いってみれば「静かなコミュニケーション」とでも捉えられるものに存在感がある日本という地域において、アメリカでのラップほどのリアリティをつかみたい、と思う時に私が頭のなかでイメージするのが、インタビューという道具なのである。(p.66)

筆者は、昨今のインタビューが広告的な目的に使用され、いわば「ドーピング」させられている状態に置かれていることに危惧を抱きます。そうではなく、目の前の取材対象者(他者)の「声」それ自身に耳を傾け、その人の過去から現在に至るまでの感情の軌跡を辿るべきだと考えます。そして、ラップも声による他者との相互行為でありインタビューとの共通点も多いが、インタビューは、とりわけ、静かな抑圧的な社会の中でもがいて生きている人の声や記憶を掘り越すことができるミニマムな表現手段だと筆者は考えるのです。

筆者が紹介する次のエピソードも、静かな抑圧的社会の中で、どんな声が流通しどんな声が流通しなくなるかがわかる面白いエピソードです。

日常的に取材対象者からの「ここはできれば削除してほしい」といった要望を聞いているとそれはほんとうによく感じる。そして、見せたがるポイントというのは、どちらかといえば、世間の人と横並びの要素を満たして「自分は一人前です」「よその同業者と比べて同水準に達しています」という守りのほうを重要視したところであったりする。(p.209)

実際にインタビューをやってみないとわからないことも多いと思いますが、この本を読むだけでも今までと違う視点でインタビューを捉えることができると思います。