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苦海浄土

ノンフィクションマラソン40冊目は『苦海浄土』です。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

 

太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられなければならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れないが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。(pp.74-75)

苦海浄土』を初めて読んだのは十数年前でしょうか、読書会のテキストとしてでした。そのときは最後まで読み通すことができず、会の議論にもあまり加われなかった記憶が残っています。その議論の中で印象に残っているのは、多くの参加者が巻末にある渡辺京二の解説に賛辞を呈していたことです。

苦海浄土』を手に取り改めて再読し始めたところ、作品冒頭すぐにある「細川一博士報告書」の箇所で躓きました。報告体の文章がそのまま長文引用されていて面食らったのです。ペースを乱されるというか、正直、何でこんなことをするのか怪訝にも思いました。『苦海浄土』では、当時の医学雑誌、新聞記事からの引用が繰り返し行われています。私は、途中から、これはかなり意識的に行っているのではないかと思うようになりました。これらの<近代>的な叙述があることで、その対極にあるともいえる<前近代的>な共同体の記憶を濃密にはらんだ朴訥な語りがより響いてくるのです。

渡辺京二は、解説で『苦海浄土』を「石牟礼道子私小説」と捉えています。この解説は気合が入っていて説得的です。ただ、私は、近代的な叙述から水俣病患者の方の声なき声まで、石牟礼道子が幅広い<声>を聴いた聞き書きと書しての側面に興味を持ちました。