沈黙、発話、発達~映画『デトロイト』を活動理論で読み解く(後篇)

 (中篇はこちらから)

tsubosh.hatenablog.com

2 映画『デトロイト』を活動理論で解読する

 映画『デトロイト』は、1967年にデトロイトで起こった「デトロイト暴動(反乱)」(Detroit riot)を描いた映画である。ただ、その暴動(反乱)の全体像を描くというよりは、その只中に起きたアルジェ・モーテル事件に焦点を当てた映画である。Yahoo!映画では、映画の概要が次のように紹介されている。

movies.yahoo.co.jp

 1967年に起きたデトロイトの暴動を題材にした実録サスペンス。暴動の最中、あるモーテルで警察が宿泊客に行った過酷な自白強要の行方を、息詰まるタッチで映し出す。監督は『ハート・ロッカー』などのキャスリン・ビグロー。『スター・ウォーズ』シリーズなどのジョン・ボイエガ、『レヴェナント:蘇えりし者』などのウィル・ポールター、『リチャードの秘密』などのジャック・レイナーらが熱演する。

(1) 警察システムの矛盾

 斎藤環は、『デトロイト』について次のようなTweetをしている*1

公民権法の歴史について私が不勉強のためこの記述が正しいかどうかわからない。ただ「タテマエとホンネのギャップ」がこの映画の重要な論点である点は間違いないと思う。

 この映画は、当時ザ・ドラマティクスというグループに所属していたが、アルジェ・モーテル事件で深い心の傷を負いグループを脱退した歌手ラリー・リードの物語として構想されていたとのことである。しかし、出来上がった映画を見ると、様々な人物が登場する群像劇となっている。

cinemore.jp

この群像劇は、複数の集団システムで構成されている。その中でもデトロイト市警を中心とする警察システムが詳しく描かれている。中篇の記事でIT化とグローバル化に対応できない企業の例を上げたが、デトロイトの警察システムも白人優位の差別的な集団という組織の「性格」からの脱皮が出来ていない。映画で表現されているデトロイト市警の矛盾を例の三角形で表現すると次のようになる。

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警察システムは多かれ少なかれどの国でも表と裏を有する。ルールとして服すべき厳密な刑事法規がある一方、その規律をはみ出すことがある。また、権力の分業的な側面として、警察権力を司法権力がチェックする建前になっているが、司法と警察が一体として動くことも多い。容疑者を捕まえるのが警察の仕事(対象)であるが、それを超えて治安維持が主目的となり冤罪を引き起こすこともある。そして、これらの矛盾は『デトロイト』では共同体の矛盾によって拡大している。映画の中で、白人警官がデトロイトを「俺たちの街」と思っていることが数回言及されている。黒人を始めとしたマイノリティーは共同体の中に入らないのである。

 しかも、映画で描かれる警察システムは、自身に矛盾を抱えていることを認めない。その矛盾を隠すために使われる道具が辻褄あわせのナイフである。警察が容疑者を故意に殺害してしまったときに、隠し持っていたナイフを遺体の傍に置く。これで正当防衛を主張することができるようになる。刑事法規の遵守とむき出しの暴力という矛盾する両者を、ナイフという道具が一挙に解決するのである。 

(2) 仕掛けられる強要とダブルバインド

 デトロイト暴動(反乱)の最中、アルジェ・モーテルに宿泊していた客の一人がいたずらでオモチャの銃を撃つ。そこから、アルジェ・モーテルにデトロイト市警がなだれこみ、「狙撃」をした容疑者を捕まえるため宿泊客に過酷な尋問が行われる。そして、その尋問は、象徴的な意味で「目」と「口」をふさぐという方法で行われる。

 尋問の際、宿泊客は手を上げ、壁の方を向いて立たされる。宿泊客の視線は制限され、自分の周りで何が起こっているかが分からなくさせられる。この視線の制限を利用し「死のゲーム」が行われる。宿泊客が1人ずつ別の部屋に連れ出され、その後、銃声が聞こえる。実際には連れ出された人は撃たれていないのだが、壁に向けて立っている客にはそれがわからない。そして、視線が制限されていることで、後の裁判で証言が揺らいでしまう。映画でザ・ドラマティクスが歌う歌の歌詞に「私の目を見て」(Look at my eyes…)というフレーズがあるが、そのような相互関係ではなく、「私を見てはならない」という命令が尋問の場で課されているのである。

 そして、警官は、尋問によってダブルバインドを宿泊客に仕掛けている。ここで宿泊客が受け取っているメッセージは次のとおりである。

A:捜査に協力するため正しい情報を提供せよ

B:正しい情報など必要ない、ともかく屈服せよ

C:容疑者が見つかるはずのないこの場で容疑者が見つからなければお前たちを帰さない 

 Aは表のルール、Bは組織の悪しき「性格」である。宿泊客は、Bが警察のホンネだと気づいている。しかし、時折、Aというタテマエに従い本当のことを言えば、この場から解放されるとの希望を持つ。このAのタテマエに従い最後は裏切られる役が、ディスミュークスである。このような逃げ道のないダブルバインドを警官は享楽するのだ。

 このダブルバインドは、死のゲームの破綻により別の強要となる。わざと殺す演技をして宿泊客を脅すつもりが、事情をよく知らない警官が本当に宿泊客を殺害してしまうのである。ただ、この殺害の隠蔽のため、警察は、残りの宿泊客たちに死体を見せ、「お前は何も見ていないことにせよ」、「ここで見たことを誰にも話すな」と強要する。この状況はダブルバインドとは言えないものの、大きな心理的負荷を宿泊客達に与えるものだ。

 では、この警察の集団的矛盾を淵源としたダブルバインドや強要からどのように脱出できるのだろうか。

(3)歌の回帰

 グレゴリー・ベイトソンは、母親から仕掛けられたダブルバインドから子供が脱却するための方法について次のように述べている。

 子供が真にこの状況から逃れる方法はただ一つ、母親によって放り込まれた矛盾状況について発言できるようになることだ。しかしそうしたところで、その発言を、自分の愛の欠如に対する非難として受け止める母親は、子供を罰し、おまえは事態を曲解していると言い立てるだろう。状況について語るのを阻止するということは、メタ・コミュニケーションのレベルの表現を禁止するということと同じである。このレベルでの表現は、しかし、われわれがコミュニケーション行動を正しく理解する上で欠かすことのできないものだ。(『精神の生態学思索社 ,1990, p.304)

 私はこの映画を初めて見た際、ラリー・リードが奪われた歌を取り戻すことをテーマとして描いた映画だと感じた。映画の前半、ラリー・リードは、デトロイト暴動(反乱)によって公演を中止させられている。この時は外的な要因によって歌を奪われただけだが、アルジェ・モーテル事件以後、ラリーは白人の警察官の警護を嫌い、ショービジネスの場で歌うことを自ら拒絶する。このようにラリーは、この映画の中で2度、声を奪われる。

 彼が歌を獲得するのは、近くの教会で賛美歌を歌うことによってである。劇中で歌われる賛美歌に、私たち(黒人)が苦境に陥っているというフレーズが出てくる。これは、黒人自身が尋問の場面でかけられたダブルバインド潜在的に黒人コミュニティ全体にかけられているダブルバインドに対する象徴的なメタ・メッセージとなっていないだろうか。逃げ道がないことを歌うことが、逃げ道となる状況がそこにある。

 

 後篇ではエンゲストロームの議論から微妙に離れつつも、『デトロイト』を活動理論というツールを使いながら解読してきた。最後に、実在のラリー・リードが参加した、映画用に作られた、そして、この記事で紹介した論点が詰まっている動画を紹介しよう。しかし、僕らの社会も、いつ成長するのだろうか。


1月26日公開映画『デトロイト』特別映像 Growミュージックビデオ

*1:他に参考になったレヴューは次のとおりである。

「映画『デトロイト』が「白人視点で黒人を描く」ことの問題点」https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyayukiko/20180207-00081338/

「『デトロイト』映画評」

https://i-d.vice.com/jp/article/ywqdmb/detroit-film-review-by-shinsuke-ohdera

「映画『デトロイト』あるいは人種妄想をめぐるグレートゲーム

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20180212/p1

特に気になったのは、古谷の批判だ。この批判の後ではあるが、初見の印象と、映画を内在的に理解したいという気持ちに基づいてこの記事を書いている。