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皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ

週末に『皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ』を見ました。


『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』予告編

期待していたより遥かに良い映画でした。よくわからないけど、紛れもない傑作だという確信があります。本作がアメコミヒーロー物と違うということはは色々なレビューでも指摘されています。ただ、具体的にどう違うのか、違うとしたらどこの点かをずっと考えていました。色々なレビューを見るうちに、次のレビューにぶつかりました。

皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ | seimu.net

この批評を見るうち、両者の違いがおぼろげながらに分かってきました。アメコミもののヒーローは、人々の代わりに自分が犠牲になったり、逆に人々を導いたりすることが多い気がするのですが、人々と「共にあろう」とすることはあまりないかもしれないと。

 以前も書いたとおり、私は、アメコミ物流行のきっかけとなった『ダークナイト』は徹頭徹尾反民主的な映画だと考えています。

『皆はこう読んだ 鋼鉄ジーグ』では、ラストの終わり方や、主人公がスクーターに乗ってスタジアムに行くシーンなど、『ダークナイト』を意識しているシーンが散見されます。ただ、『ダークナイト』とは異なり、バットマンしか乗ることのできないバットモービルではなく、他の人(警察?)が乗っていたバイクを借り、スタジアムに向かうのです。また、この映画は、とても上手く街の風景をカメラに収めています。

友人がこの作品の隠れたテーマが「孤独」であると言っていて、話を聞いた当初よくわからなかったのですが、なんとなく見えてきました。人々と共にあることは大概にして煩わしく、英雄でない私達でも難しいものです。主人公は、力を得、喪失を抱え込む中で、人々と「共にあろう」と決断したのではないでしょうか。

日本ノンフィクション史

 

本書は、個々の作品にはあまり立ち入らず、日本においてノンフィクションという概念がどう成立したかをテーマとしています。特に、筆者は、沢木耕太郎においてノンフィクションの物語化が決定的となり、物語的ノンフィクション作品が一般に膾炙する反面、ノンフィクションが持つ記録性や事実性の側面が見失われがちになったと主張します。

筆者の主張を私なりに言い換えるなら、ノンフィクションが小説化する際に失われるもの、得られるものに注視せよということではないでしょうか。ノンフィクションを読むときに感じるのは、世界が自分の想像を超えているという感覚です。事実の重みがちっぽけな自分の想像力を凌駕する、その瞬間に快楽を覚えるのです。ただ、事実を提示するだけでは足りないとき、また、事柄自体の意味を深く探りたい場合に、虚構が力を発揮します。本書でも、開高健が、『輝ける闇』で、ノンフィクションで昇華できなかったことをフィクションとして昇華したと紹介されています。

さらに、この本の中で改めて気づかされたのは、ノンフィクションに関するメディアの幅広さです。第3章「トップ屋たちの蠢動」では雑誌記者たちの集団的な記事作成が、第5章「テレビの参入」ではノンフィクション概念の成立に影響を与えたTVドキュメンタリーがテーマとなっています。いずれも小説のように単独の著者が執筆するというモデルで作品が作成されていません。私自身、幼い頃読んで興奮したのは、漫画の偉人伝や兵器の図鑑でした(ちなみに、最近では、週刊誌記事も大好物ですが(笑)。)。
多くの人々に影ながら影響を与えている読み物が、分業化され集団制作された記事や映像であることも多いはずです。本書で、このような読み物もきちんと射程に捉えなければならないという点を再確認することができました。

ノンフィクションの手頃な通史がない中、とても勉強になる本でした。本書で紹介されている個々の作品の評価については、また、個々の記事の中で紹介できればと思っています。

人生タクシー

 『人生タクシー』(ジャファル・パナヒ監督)を見ました。

 反体制的な活動のため20年間の映画製作を禁じられたイランのパナヒ監督。彼の『これは映画ではない』は、その環境を逆手に取り、「脚本を読んだり動画を撮影したりするだけでは映画製作にならないのではないか」というコンセプトの下、「映画が映画であることはどういうことか」という根本的な問題に取り組んだ知的興奮に満ちた映画でした。


ジャファール・パナヒ監督『これは映画ではない』予告編

 『これは映画ではない』の出来があまりに良かったために、『人生タクシー』には大変期待していました。様々な映画紹介によれば、パナヒ監督自身がタクシードライバーとなり、様々な人をタクシーを乗せ、現在のテヘランの市民生活を見せる映画ということでした。一種のフェイクドキュメンタリーとなのかなと思い、劇場(新宿武蔵野館)に足を運びました。


ジャファル・パナヒ監督作!映画『人生タクシー』予告編

 以下、内容的に正確ではないかもしれませんが、印象に残ったことを書きます。

 上映開始後約30分間は、タクシーの中で男性客と女性客が死刑制度について論争を始めたり、急病人が担ぎこまれたりと様々な出来事が起こるのですが、正直つまらない展開が続きました。どう考えてもヤラセとしか思えない映像で、フェイクドキュメンタリーとしても出来があまりに悪いのです。パナヒどうしたんだ、と思ったのですが、彼の姪っ子(小学生)が登場し、突然、映画が加速し始めます。
 姪っ子は、学校で映像を撮る宿題が出た、いろいろ変な(政治的・宗教的)制限があって自分が撮った映画を上映することができなくなった、とパナヒに言います。パナヒは姪っ子にどんな映像を撮ったのか聞いたところ、(姪っ子の)姉に求婚しにきたアフガニスタン人がいたが自分の家では取り合わなかった、あまりにしつこいので親戚がその人を袋叩きにした、その一部始終を撮影したのだと、とんでもないことを言います。イランでなくても、倫理的にそのような映像を上映することは難しいでしょう。小学校が上映をやめたのも理にかなっています。

 さらに、姪っ子は、パナヒ監督が車から離れている間に、路上の少年をデジタルカメラで撮影し始めます。結婚式のカップルが落としたお金を拾った少年に、そのお金をカップルに返してほしい、美談となるからそれを撮影したいと持ち掛けます。ヤラセの提案です。少年は断り、姪っ子は失望するのですが、そのシーンの後にパナヒが車に戻ってきます。「ヤラセの提案がなされたことを(少なくとも撮影時は)監督が知らない」というヤラセであるというメタ的な構造を持つ映像をとおして、映り込み映像といわれるものでも意図的なものがあるのだ、という監督のメッセージを感じてしまいます。

 『これは映画ではない』のテーマが「映画が映画であることはどういうことか」であったのに対し、『人生タクシー』のテーマは、映画という枠組を超え、「映像を見る/見せることはどういことか」というものだと私は考えています。

 現在は映像があふれている時代です。『人生タクシー』のなかでも、タクシー内の固定カメラ、パナヒのスマートフォン、姪っ子のデジタルカメラ、刑務所のカメラに至るまで様々な撮影機器が登場します。映画の中でもそれらの機器で撮影した映像が幾度となく挿入されます。そして、誰もが撮影した映像をインターネット上に公開できる時代でもあります。『人生タクシー』は、イランの検閲制度という社会制度の批判をとおして、「映像を見せることはどういうことか」という現代的で本質的な問いにまで至る知的刺激に満ちた作品だと感じました。

はてなBlogに移行しました

リブートするに当たって、はてなBlogに移行しました。また、過去記事を確認、現時点で削除した方がよいものを削除、レイアウトを修正しました。これを機にVer3.0とします。

過去の記事を確認していて気付いたことですが、アップした時点で書く必要性がないと思い手抜きしたところが、ことごとく意味不明となっていました。手抜きせずに、明確でわかりやすい文章でBlogを書いていきたいと思います。

遠野物語・山の人生

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

 

 「同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということ」(p.88)
「我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い」(p.95)

民俗学の祖、柳田国男の代表作「遠野物語」「山の人生」を読みました。柳田国男の著作は断片的にちょこちょこ読んでいたのですが、単著を通しで読んだのは恥ずかしながら初めてです。

柳田は歴史の流れの底流にある不変で静態的な層を研究しているという勝手なイメージがあったのですが、この本を読んで印象が変わりました。柳田が例に挙げるのは、民俗的な風習よりも、神隠しとか狐や狸に騙されるとかいったような、超常現象が遥かに多いのです。確かに、「遠野物語」で有名となった座敷わらしも超常現象ですね。

この超常現象が、単なる心理現象だけでなく、また、中国から伝来した仏教等の影響だけでなく、「山人」の仕業であった場合もあったのだと柳田は考えます。「山人」は、山男とか山姥とも言われ、里にいる人々とは違う生活習慣を持つ人々のことです。そして、彼・彼女ら「山人」は日本の先住民族だったのだ、と彼は大胆な仮説を唱えるのです。最終的に「山人」は、里の人々と同化し、その習慣は絶えることになったとも彼は考えます。

現在の学問的水準からいって先住民族論は否定されているかもしれません。ただ、この本は様々な領域に展開していける種がたくさん埋まっている本だと思います。私は、精神分析の著作との類似性を感じました。思いつきではありますが、フロイトの「モーセ一神教」と比較をしてみても面白いと思います。

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)