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(月3回以上更新目標)

三歩後退一歩前進(その3)

前回の続きです。

私は、中学受験組だったので、塾には小学高学年から行っていました。ずっと行っていた塾は河合塾です。※以下、河合塾の宣伝の意図はないので御承知おきを。

当時の私には、河合塾が、大学だけでなく、知の世界への予備校でした。学校で教えてくれない解法などを教えてくれるのも興味深かったのですが、講師が話す、こんな考え方もある、こんな本があるという挑発にも似た話に触発されました。中学生の頃ですが、私が授業を受けていた講師が編集した次のような本が出版され、その中に紹介されている本を読んだりしていました。

中高生のブック・トリップ

中高生のブック・トリップ

 

 そして、予備校の講義を聞いた後、名古屋駅地下の大型書店に行き、文庫本や新書の棚の周りを徘徊し、講義で紹介された本や関連の本を眺めていました。この「耳学問」ならぬ「ちら見学問」によって、多くの作者の名前を知ることができ、今から考えるととても役に立った気がします。

よく言われるように、当時の予備校は、学生の人気が高く、彼らの学力を向上させられれば、何をやっても許されるというアナーキーな雰囲気に満たされていました。授業中、積極的に、挑発的に脱線をする講師もたくさんいました。これは、ただ単に人気取りの面だけでなく、別の意味もあったと思います。結局、勉強は学生自身でやらないといけません。講義を聴くだけでは、勉強は絶対に出来るようにならないのです。問題は講義の達成目標をどこに置くかということです。一般には、わかりづらい知識をかみ砕いて伝えることが、予備校の講義の達成目標だと思います。ただ、雑談をする講師は、知識だけでなく、知への欲望に学生を感染させることが重要だと考えていたのではないでしょうか。知への欲望は、学生の視野を広げ、受験勉強自体を俯瞰した観点から捉えさせることを可能にするからです。

ただ、予備校での講義は、最終的には1個の商品です。私の場合、「あー、今日も面白かったな」という感じで、復習せず授業を受けたままになってしまうことが多かったです。受け身の勉強に慣れすぎると、わからないこと、壁にぶつかったときの対応力が鈍ります。先の記事で述べた今現在の実力よりあまりにも高いものを望みすぎることと、私自身の独学力のなさが相まって、大学入学時、ちょっとした混乱に陥りました。そして、今も、このギャップに似た事態に無意識的に陥っていることがあり、気をつけないと思うことがしばしばあります。

自伝を書くつもりはないですし、そんな齢でもないのですが、このシリーズを始めてから昔あったことが色々思い出されてきました。そういえば、名古屋の千種駅の近くにドムドムバーガーがあったけど、あの店は今もあるのかな、というようなことも含めてです。ネットで調べたら、閉店したそうです。残念です。が、ドムドムハンバーガだったんですね、間違って記憶していました。

retty.me

詳細はまた述べますが、このシリーズの目標は、自分の問題意識をたどり直し、きちんと専門領域を決め、1本、論文(的なもの)を書くための橋頭堡とすることです。ただ、このシリーズの中で、自分の「記憶」にあることを「記録」に変える作業をしても面白いかなと思いました。予備校話はここで切り上げ、自分にとって1995年~1999年はどんな時代だったのかを振り返ってみたいと思います。

三歩後退一歩前進(その2)

大学の授業に付いていけなかった理由は、予備校文化に自分が浸かっていたからかもしれないということを前回書きました。前回の記事を書いた後、色々考えていたのですが、受験勉強文化に浸かっていたといった方がより適切かもしれないと思い直しました。

大学入学当初、戸惑ったのは本が読めないということです。笑われるかもしれませんが、3回生くらいまで新書を1冊読み通すこともできませんでした。1冊読み通しても、字が自分の目を通り過ぎていくだけというか、焦点が合わない感じがずっとしていました。これは、高校時代に長い文章を読む訓練を積んできていなかったからだと考えています。受験国語では、だいたい1~2頁の文章を読み、問題に回答するのが標準だと思います。小論文でも長くて5~6頁でしょう。問題を解くために、短い文章の内部分析を細かく行うことになります。しかし1冊の本を読むということは、息の長い作業です。長い文章も短い文章も、同様に構造を読み解く作業であるのですが、注意の向け方というか、集中の仕方が異なります。水泳で5メートルを息つぎなしで泳ぐことと、25メートル息つぎありで泳ぐことの間に壁があるのに似ています。私の場合は、3回生くらいで何となく本を読む感覚がつかめてきました。

本を読むことができなかった他の理由として、その本を読むには時期が熟していなかったという面もあります。背伸びをするのは決して悪いことではないのですが、ミスマッチが過ぎると苦手意識を持ってしまい逆効果になります。更に悪いことに、私が興味を持ったのは、フランス現代思想という悪文で有名な分野で、ミスマッチの度合が更に深まりました。ただ、その効用として、少々の悪文では驚かなくなりましたが、それが良いことだったかどうかはわかりません。

私の乏しい経験から、高校までの受験勉強から大学向けの勉強へと転換する大学内でできる手当として、新書を1週間に1冊読む読書会形式の基礎ゼミをやったらよいのではないかと考えています。(ただ学生さんに新書代の負担は生じてしまいますね…。)専門書ではなく、必ず新書とし、極力、学力的なミスマッチをなくします。複数の教員が参加し、各自の専門の観点からコメントしたら、更に面白いと思います。岩波ジュニア新書やちくまプリマー新書から始め、岩波新書中公新書に終わる流れで、内容を紹介することが主眼でなく、ともかく本1冊読む「体力」をつけるのが目標です。

少し脱線してしまい、思わぬ提案をしてしまいました。教育の実務に携わっている方からは何、地に足を着いていないことを言っているんだと思われるかもしれません。あくまで思いつきということで。次回に、今回触れるはずだった、私が浸かっていた予備校文化に触れたいと思います。

三歩後退一歩前進(その1)

不惑を迎え、未来につなげられればと思って、昔のことを振り返る「三歩後退一歩前進」シリーズを始めることにします。

tsubosh.hatenablog.com

つい先日、18歳のときの下宿先の近くに行きました。画像は下鴨北小路交差点です。

 

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阪神淡路大震災オウム事件が起こった年、大学進学に伴い、私は京都の下鴨高木町に下宿して一人暮らしを始めました。まだバブルの残り香が残っていた時代です。大学1回生、オリエンテーションの時、「将来君たちは食べていくのは問題ないよ」とある教官に言われたことがありました。日本が豊かでまだまだ上昇すると、周りの多くの人が考えていたのではないかと思います。その甘い観測が将来全く通用しなくとなるとは、その時考えもしませんでした。ただ、その甘い考えのおかげで、自分の考えに忠実に行動する自由が得られた面もあります。

大学に入った時、私は、外見的には謙虚だったかもしれませんが、内面的にはとても傲慢でした。また、何故か人には負けられないという意識に苛まれており、とても焦っていました。そして、高校時代で行ってきた受験勉強ではなく「本当の勉強」をしなければ、大学生活は4年しかないのだから、という強い思いがありました。

ただこの「本当の勉強」は、出だしからつまづくことになります。今思うといろいろな理由がありますが、思い込みが強かったこと、準備不足だったことが大きいです。

私の所属していた学部は、いわゆる教養・学際系の学部で科目選択がかなり自由でした。更に、私の周りでは、授業に出ること自体が美徳として推奨されない雰囲気がありました。その雰囲気に流されて、語学は必須のため授業に出ていましたが、夏休み以降から他の授業には出なくなりました。その中でもよく覚えているのが、菅原和秀さんの「社会人類学」や新宮一成さんの「精神分析夢分析)」の授業です。何を覚えているかというと、全く歯が立たなかったということをです。他にも魅力的な講義がたくさんありましたが、1~2回生時代は理解できない点が多かったなと思います。

ただ、わからないのは当然のことです。その領域を勉強したことがないからです。向き不向きは別として、本を読んだり論文を読んだりして、知りたい領域の相場観をつかむ必要があるのですが、そうすることが技術的にも、また、心理的にもできなかったなと思います。それができなかった理由として、当時、自分が予備校文化にどっぷりと浸かっていたことが一因としてあるのではと今、考えています。

自分が予備校文化からどのような影響を受けたかという点については次回に。

ニッポンの音楽

ノンフィクションマラソン17冊目です。詳しくない分野(音楽)に挑戦ということで。

ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

 

 ひとが音楽家になる理由は、大きく言って二通りあります。一つは「誰かの音楽を聴いたから」、もう一つは「誰かの音楽を聴いたからでもなく」です。前者は、本書で繰り返し語ってきた「リスナー型ミュージシャン」です。(…)他者の音楽のインプットを自分という回路でプロセシングし、自分の音楽としてアウトプットすることが、音楽家としてのアイデンティティに根本にあるようなタイプのミュージシャンは、常に自分をどこか客観視していて、自分自身すらコンセプトの素材として扱っているような気がします。(pp.196-197)

 

この本は、日本の戦後ポピュラー音楽の通史ではないです。例えば、BOOWYも、ブルーハーツも、B'zもこの本に出てきません。日本の戦後ポピュラー音楽の通史が概観されるのではなく、筆者のいう「リスナー型ミュージシャン」の日本における系譜が紹介されます。「リスナー型ミュージシャン」とは、何かの「思い」を「表出」するのではなく、外国音楽も含め大量に音楽を聴き、歌詞よりも音を中心に、コンセプチュアルに作品を作るタイプのミュージシャンです。この「リスナー型ミュージシャン」として、はっぴいえんどYMO、ピチカート・ファイブ、小室哲哉などが取り上げられています。(ちなみに、この本の中で引用されている小室哲哉のインタビューからは、彼のクレバーさが伝わってきます。)この系譜の音楽をあまり聞いたことがなかったため、大変面白く読みました。

また、90年代の「リスナー型ミュージシャン」が成立した文脈として、渋谷という場所の特徴が書かれています。実はこのトポスとしての渋谷の記述がとても興味深かったです。この感度、豊穣さを、今の日本はなくしてるかもしれません。

90年代の東京、中でも渋谷は、そこに行けば音楽の最新情報が、何でも得られる街でした。渋谷のタワーレコードでは、手に入らないCDはない、とまで言われていました。それはもちろんオーヴァーだとしても、海外から来たミュージシャンをタワレコに案内すると、皆が皆、その品揃えに驚愕していたものです。(p.206)

最暗黒の東京

ノンフィクションマラソン、これからは古典と最近の本をローテしていきたいと思っています。さて、16冊目の今回は古典のパートです。

最暗黒の東京 (岩波文庫)

最暗黒の東京 (岩波文庫)

 

さるほどにこの残飯は貧人の間にあッてすこぶる関係深く、彼らはこれを兵隊飯と唱えて旧くより鎮台栄所の残り飯を意味するものなるが、当家にて売捌く即ちその士官学校より出づる物にて一ト笊(飯量およそ十五貫目)五十銭にて引取り(・・・)(pp.41-42)

 随分前(10年以上前!)にこの本を紹介してもらっていました。明治期文語体のため読み通せるかどうか不安だったのですが、大変読みやすく一気に読んでしまいました。また、本書の中で東京の様々な地名が出てくるため、逆に東京に来た今、読んでよかったと思っています。

この本は、筆者が明治期、まだ近代化途上の東京のスラム街を「探訪」した記録です。率直な感想として、今と変わらない面も多くあるなと感じた次第です。「三十三 日雇労役者の人数」で描かれる下請構造は現在の下請と瓜二つですし、一輪車の車夫が供給過剰となっているさまは現代のタクシー業界と似ている感があります。そんな中で異彩を放っているのは、引用にも記した残飯屋です。こんな商売があったとは。この本には、下層の様々な食べ物が出てきます(「深川めし」などもあります。)。が、あまり食べてみたいとは思わないですが…。