『理性の使用』(富永茂樹著)
- 作者: 富永茂樹
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2005/01
- メディア: 単行本
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この本は面白いです。
昨今、市民性教育ということが言われますが、フランス革命は、他者の理性に依存しない自立した「市民」を育成しようとしたおそらくはじめての大規模な試みでした。しかしです。その理念・思想とは別に、実際にどのような方法や手段を取って、ひとびとの市民化を進めていこうとしたかは、私たちにはあまり知られていません。
この本のポイントは3つあるかと思います。
1.フランス革命が、中間集団を廃し中央集権化を進めた。
2.フランス革命が、中間集団での政治の議論を禁止した。
3.サロンの会話と議会での議論には差異がある。
1はトクヴィルなども主張していることで、特に新しいはなしではないのですが、2、3の論点はなるほどと思わされる点でした。
2について、中間集団での政治の議論がなぜ禁止されるというかというと、中間集団がある特定集団の利益しか代表していないからです。つまり「政治的代表制」の問題なのです。政治は議会でのみ議論しあうべきものであり中間集団が口をはさむべきものでないという考えが裏にあります。しかしこの原理を突き詰めていくとおかしなことがおきます。
政治的代表制の問題は別のところでも社会集団の問題につながっていく。5月に公共空間での貼り紙の掲示が禁止されることになったときのことを思いだしてみよう。ル・シャルプリエは広場や街路などは誰の所有にも属さず、国民に共同のつまり全体の所有物であるとして、伝統的に地域の共同体の社交が展開された場から具体的な人間が消えることを求めた…(p.108)
貼り紙や、公共空間での社交までも禁止されるなどして、人と人が出会う場、語りあう場が社会から消えていくのです。
3の点についても面白い議論が展開されます。イギリスのコーヒーハウス、フランスのサロンから、公共圏が誕生し、政治的な影響を与えたことが言われることがあります。しかしサロンでの会話と、政治上の議論は、同じ他者とのコミュニケーション構造を持つとしても、かなり異質なものではないかという指摘がなされます。政治上の議論は罵倒や中傷になりやすく、サロンの会話は平和に楽しく進む。両者の間の違いをきちんと考えるべきではないかという指摘は、考えるに値する指摘かと思います。
ともあれ以後の共産主義革命などの動きも踏まえながら、上記の点を考えていくと面白い気がしました。