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(月3回以上更新目標)

失われた兵士たち

ノンフィクションマラソン43冊目は『失われた兵士たち』です。

 文章を草するということは、先に言及した「人間生活の不安定な構造を徹底的に破壊するもの、潜在的な人類の獣性を表面にうかび上がらせる崩壊的な力」に対抗するもう1つの力、いってみれば人間としてのあかしではないかと私は考えるに至った。それでこそものかきを生業としない兵士たちが、帰還してから多くの戦記を書いた理由がわかるというものである。(p.425)

随分前に、野呂邦暢という面白い作家がいるよと職場の人に言われたことがあります。その話から短編小説家でありエッセイストなのかと思っていたため、本屋でこの本の存在を知ったときは少し意外の感がありました。

この本は、15年戦争を知るには(狭義の)「戦争文学」だけでは足りないという筆者の思いから始まっています。先の戦争は、小説を書くようなエリートによって担われたのではなく、前線に赴いた農民や労働者など「ものかきを生業としない兵士たち」によって担われたという彼の思いから、多数の戦記が紹介されていきます(ただ、八原博道『沖縄決戦』のように参謀レベルの戦記も複数紹介されています。)。紹介される戦記の地理的範囲も、南洋、戦艦大和沖縄戦、さらには東京裁判までに至ります。

この本の素晴らしさは、どこの章においても、視線が<人間>に対し向けられ全くぶれがないところにあると思います。どの戦記に対しても、真摯にその書き手に向かい、書き手やそこに描かれた人間への敬意を保ち続けているのです。野呂自身はこの本を「文学論ではなく、一種の書誌的論考」(p.450)と言っていますが、全体として一つの卓越したエッセイとなっていると思いました。

ふたつの日本

ノンフィクションマラソン42冊目は『ふたつの日本』です。

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

 

同じ日本に暮らしていても、国籍によって、在留資格によって、この国で通過する経験は大きく異なる。同じ国境の内側でも、見えないいくつものレイヤーがこの国で暮らす人々を区別し、分割している。何年滞在できるか、働くことができるか、働き先を変えることができるか、家族と共に暮らすことができるか、一人ひとりが違う。同じ「外国人」でもその境遇は大きく異なる。(p.207)

この本は、コンパクトに日本の移民問題の全体像をまとめた本です。印象的だったのは、日本の移民政策の特徴とされる「サイドドア政策」です。「サイドドア政策」とは、単純労働者を受け入れないという「建前」と、労働力不足という「現実」を解決するための方便として、正面(フロントドア)からでなく勝手口(サイドドア)から外国人を受け入れる政策で、技能実習生や留学生など就労目的でない人を実質的に労働力として活用する政策のことです。誰もが見える形で矛盾が放置され、そして、その矛盾の中で様々な人権侵害が起きている現状が簡潔な記述で書かれています。

入国管理に関する法制度は複雑で、この本を読み終えてもまだ頭の中が完全に整理できたわけではないのですが、数値や図解などにより、問題の所在のとっかかりがつかめたような気がします。そして、かなり若い書き手の方だと思うのですが、文面から問題へ向かう誠実さを感じました。

近況報告(2019年8月上旬)

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6月、7月があっという間に過ぎていってしまいました。この間、参議院選挙があったり、長く住んだ京都で悲惨なテロ事件があったり、吉本の騒動があったりしました。私は世の中の動きと決してシンクロした生活をしているわけではないのですが、少し思うことがありましたので書いてみたいと思います。

それは、既に多くの方が指摘していることで、とても凡庸な意見なのですが、現代日本の最重要の課題がハラスメント構造の打破にあるのではないかということです。ハラスメントのターゲットは、明確な理屈なく(たとえば、妄想、ルサンチマン、集団的な雰囲気により)感情的に選び出されます。このターゲット選びが、国家、企業、ローカルな集団のレベルで同時多発的に起きている感があります。少し長く書いた「デトロイト論」や「君たちは~」論もこのあたりをぐるぐるしていた感があります。

ハラスメント構造の打破のためには様々なアプローチがあるでしょう。今、話題となっている「あいちトリエンナーレ」のコンセプトに「いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。」という一文があります。(申し訳ないですが)コンセプト全文の出来はそれほどよいと思わないのですが、この一文には少し感銘を受けました。近々、実家に帰省する予定ですので、展覧会に顔を出してみたなと思います。

上の写真は、高畑勲展に行ったときの画像です。「かぐや姫の物語」で彼が「線」を発見する過程がとても面白かったです。また、異様に理屈っぽい彼の草稿もいいですね。その理屈を支える彼の「情熱」をひしひしと感じることができました。

自由学問都市大坂

ノンフィクションマラソン41冊目は『自由学問都市大坂』です。ノンフィクションというよりは、思想の解説本に近いですが。

自由学問都市大坂―懐徳堂と日本的理性の誕生 (講談社選書メチエ)

自由学問都市大坂―懐徳堂と日本的理性の誕生 (講談社選書メチエ)

 

このような[水戸学的な]祭政一致的な社会統合論は、明治政府の国民統合の理念のなかにひきつがれている。天皇および朝廷の近代化は、国家神道の強力な整備とともに行われていくことになるのである。

この点で、はっきりと無鬼論を主張し、朝廷や天皇からも宗教的・呪術的要素をすべて洗い流そうとした懐徳堂の立場は、明治維新以後、現代までを通してみても、きわめて特異なものといっていいだろう。(p.145)

 この本は、18世紀大阪の知的潮流、特に懐徳堂界隈の思想家(富永仲基、山片蟠桃など)に焦点を当て、その思想的可能性を考察した本です。荻生徂徠古文辞学への批判、石田梅岩の心学への批判、上の引用にもある無鬼論がコンパクトにまとめられており、よき入門書となっています。

以下、素朴な感想ですが、やはり江戸期の思想は面白いですね。以前、『やちまた』を読んだときにも感じたのですが、西洋思想でポイントとなる点(例えば言語論)が既にテーマとされていたのだなあと感じました。また、今の我々の生活や日常道徳と儒教的な伝統とがどのように切り結ばれているのか、意外に気づかれていない結びつきがあるかもしれないなとも思いました。

tsubosh.hatenablog.com

 

苦海浄土

ノンフィクションマラソン40冊目は『苦海浄土』です。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

 

太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられなければならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れないが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。(pp.74-75)

苦海浄土』を初めて読んだのは十数年前でしょうか、読書会のテキストとしてでした。そのときは最後まで読み通すことができず、会の議論にもあまり加われなかった記憶が残っています。その議論の中で印象に残っているのは、多くの参加者が巻末にある渡辺京二の解説に賛辞を呈していたことです。

苦海浄土』を手に取り改めて再読し始めたところ、作品冒頭すぐにある「細川一博士報告書」の箇所で躓きました。報告体の文章がそのまま長文引用されていて面食らったのです。ペースを乱されるというか、正直、何でこんなことをするのか怪訝にも思いました。『苦海浄土』では、当時の医学雑誌、新聞記事からの引用が繰り返し行われています。私は、途中から、これはかなり意識的に行っているのではないかと思うようになりました。これらの<近代>的な叙述があることで、その対極にあるともいえる<前近代的>な共同体の記憶を濃密にはらんだ朴訥な語りがより響いてくるのです。

渡辺京二は、解説で『苦海浄土』を「石牟礼道子私小説」と捉えています。この解説は気合が入っていて説得的です。ただ、私は、近代的な叙述から水俣病患者の方の声なき声まで、石牟礼道子が幅広い<声>を聴いた聞き書きと書しての側面に興味を持ちました。