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教育の職業的意義

ノンフィクションマラソン59冊目は『教育の職業的意義』です。

 戦後の経済復興や社会の民主化・平等化が高校進学率を急速に押し上げたという「教育現実」が、労働力需要と企業内定着化の必要性の増大という現実と相まって、「日本的雇用」という「労働力実態」を生み出し、さらに続いて「労働力実態」が一元的能力主義の支配および職業的意義の喪失という「教育現実」を確立し、経済環境がそれをいっそう促進するといったように、教育と労働との循環的な相互規定関係が、政策的意図をも裏切る形で、60年代以降の日本社会を形作っていったのである。(p.87)

「自分は果たしてきちんと社会で働けるのだろうか」。学生から社会人になる前に、誰しもそんな不安を抱くのではないでしょうか。教育の世界から労働の世界へ参入する際、少なからぬ人が両者の間に大きな溝があるのを感じます。違う世界に移行するので、その間に何かしらの溝はあるかもしれません。しかし、なぜその溝がここまで大きくなってしまうのか。この本は、その原因追求と、対処法を考えようとします。対処法の1つが、タイトルにもあるように、教育に職業的意義を持たせるということになります。その主張も説得的で面白かったのですが、先に述べた「溝」がなぜ拡大してしまったのかという原因を分析した第2章「見失われてきた「教育の職業的意義」」の箇所が興味深かったです。

実は、上に掲げた引用が第2章の主張の要約ともなっています。端的には、1960年代高度成長時代の成功体験が、現在の足かせとなっているという主張になります。1960年代より前は、高校を卒業したらホワイトカラーとなることが多かったとのことです。しかし、高校進学率の上昇により、高校を出てもホワイトカラーになれない人が多数出て、企業内で不満が高まります。そこで、企業内でブルーカラーからホワイトカラーへの昇進の道が設けられます。これは、両者の職業的な質的差異が企業内で低下することを意味します。また、おりしも、労働力不足の時代、企業は労働者を確保しようとします。労働者はあくまで企業の「メンバー」として考えられ、ある「職」を専門的に行う者としては捉えられなくなります。このような労働環境があるため、採用の際、企業のメンバーとして働くための一般的な知識・教養だけが見られることになります。そして、現在の教育は、このように「教育現実」と「労働力実態」の相互規定の結果生まれていると、著者は考えます。

このモデルは問題を抱えながらも存続してきたわけですが、2000年代を迎え、目に見える形で綻びが見られるようになります。不景気となり、正社員を前提とした「メンバーシップ型」雇用形態で雇われる労働者の数が減るという労働環境の変化が生じたのです。それにもかかわらず、高校や大学では、「メンバーシップ型」の企業に適合的であった、職業的意義のない、一般的な知識・教養の教育しか行われておらず、それは若者のためにならず問題である、と筆者は批判するのです。(なお、この本では「キャリア教育」批判も同時になされています。)

教育領域はそれ自体で自立性を持つ領域ですが、当然、別の領域とも接続しています。このような領域間の相互関係に着目する視点がこの本の大きな魅力だと思います。また、以前紹介した『残業学』も、成功体験が足かせになっているという指摘をしていました。今、日本は難しい変革期なのだと思います。