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コンヴィヴィアリティのための道具

これからずっと置き去りになっていた教育学(生涯学習論)関連の本も読んでいきたいと考えています。今回はその1冊目となります。が、この本が教育学関連の本かというと微妙なところはあるのですが…。

 私が大学に入りたての頃、人生で初めて読んだ学術書(?)が、イヴァン・イリイチの『脱学校化の社会』でした。当時、全く歯が立たなかったのですが、流石に近代の制度である学校について批判を加えていることぐらいは分かりました。ただ、現代の学校が問題を抱えていることは特段分析されなくても分かる面もあり、その批判に何の意味や効果があるのかなとも考えていました。

年は過ぎ去り、最近、イリイチの名前を目にすることが多くなりました。1つは脱成長論の文脈でであり、もう1つはインターネット関係の文脈でです。イリイチと出会い損ねたことは分かっていましたので、今回、予断を廃し、文庫になっている彼の『コンヴィヴィアリティのための道具』を読んでみました。

私は"道具"という言葉を、ドリル、ポット、注射器、箒、建築材料、モーターのような簡単なハードウェアだけを、また自動車や発電装置のような大きな機械だけを包含するのではない、広い意味で用いる。すなわち、私は、コーンフレークとか電流とか触知しうる商品を製造する工場のような生産施設と、"教育"とか"健康"とか"知識"とか""意思決定"とかを生み出す触知しえない商品の生産システムとを、道具のうちに含めるのである。(p.58)

道具は社会関係にとって本質的である。個人は自分が積極的に使いこなしているか、あるいは受動的にそれに使われているかする道具を用いることで、行動している自分を社会と関係づける。(p.59)

イリイチがこの本の中で、分析の中心に据えるものは「道具」です。そして、私はこの本の中で一番興味深い箇所が、この広範な「道具」の定義だと考えています。一般的に、教育は「制度」(教育制度)という言葉で語られることが多いのではないかなと思います。「制度」というと、私たちの外部にあって、私たちの影響力が及ばないものに思えてしまいがちですが、「道具」という言葉を使うことで、「教育」という形のないものが、あたかも自分たちの「手」で扱えるようなものに思えていきます。使う言葉が変わることで、見えてくる光景が違ってくるという好例です。

イリイチは、本来、道具は人間を助けるものであったのが、産業主義の進展により逆に道具が人間に害をなすようになったと考えます。これは機械が人間の職を奪ったというような面だけを述べているのではなく、産業主義の進展により、道具が人間が生き生きと暮らすことのできる限界を超え、人間の生活圏全体がその奴隷になっていることを示しています。

この本の中に「根元的独占」という概念が出てきます。この「根元的独占」の一例として、車が挙げられています。車の出現により、車での移動が支配的となり、徒歩、自転車、地域独自の水運などが廃れます。車という「人間生得の移動能力」を超えたものにより、都市の空間が形づくられることになります。この傾向は、資本主義社会であろうと社会主義社会であろうと変わりません。両者とも、無限の発展を目指す産業主義社会だからです。

また、車より形のない道具、「教育」を考えてみましょう。人間の生得的な限界を超えた諸道具を操作するには、そのための専門的知識が必要とされます。それを教える道具は学校です。この学校での学びは、卒業資格を取ることが中心となり、そこに選別の原理が働きます。この選別の原理を生き残った者が専門家として、知の管理に携わることになります。専門家による支配がここに誕生します。また、学校では、みずから学ぶ姿勢がすたれ、教わる(教育を受ける)という姿勢が、支配的ともなります。

産業主義が人間の限界を超えて発展することで、逆に人間が不幸になる、人間の生が劣化する事態を避けるため、イリイチは道具に限界を設けるべきだと主張します。道具に限界を設定し、道具が「自立共生的」(コンヴィヴィアル)な生活に役立つようになるために、言語、法的手続、政治を復権すべきだと彼は考えるのです。

私がこの本を読みつつ、是非知りたいなと考えていたのが、産業主義から逃れるための具体的な方法(提案)でした。その点で面白かったのは、中国の「毛体制」へのイリイチの肯定的評価です(pp.27-28)。1968年に、中国の上海医科大学が「いわゆる第一級の医者」の育成から、百万人の健康相談員("裸足の医者")を作ることに方針転換をしたとのことで、この転換についてイリイチは肯定的評価をします。当然、当時の文化大革命の行末をイリイチは知らなかったと思います。そのことを差し引いたとしても、何か「もやっと感」が残るのです。例えば、現在のコロナ禍において、かなりシビアに感染症に対する専門知識が問われています。専門家でも四苦八苦している問題に、その劣化版である「健康相談員」が束になってかかっても、コロナ禍に対する有効な対応策とはならないのではないでしょうか。

イリイチは、近代の産業主義の問題を、前近代的な知恵に戻ることで解決しようとしたと考えます。その発想、そして「コンヴィヴィアルな道具」というコンセプトには共感するのですが、問題がそれで全て解決するわけでないという感も同時に持ちました。最後、もやっと感で終わる形ですが、これが現在の正直な感想です。