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(月3回以上更新目標)

航路を変える(21年7月その3)

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オリンピックが始まりました。TVをつけると、ずっとオリンピックが放送されているのですが、「パラレルワールド」というかどこか別の世界の感じがしてあまり観る気になれません。

さて、東京都美術館でやっていた「イサム・ノグチ 発見の道」という展覧会に行ってきました。上の写真は、その展覧会の写真です。光をテーマとした第二部が面白く、また、第三部の石像の展示では、石自体というより、光や水の影響を受ける、石の「表面」に注目をしました。イサム・ノグチは、石を削ったり、磨いたりして、かなり意識的に石の見え方の工夫をしている気がします。もう少し深堀りしてみようと、次の本を読んでみました。

この本では、イサム・ノグチの芸術的な変遷について、前衛的・個人的な抽象芸術から、公園や庭園といった公共的・ランドスケープ的芸術を目指すようになったと整理し、後者の意義を説いています。ただ、この本を読んでも、まだ私にはイサム・ノグチがつかめていない感があります。

話は変わり、最近、次の本を読みました。

YA文学(といわれているもの)を読んでいこうかなと考えていて、その第1回目となります。この本は、同じ学校に通う中学2年生、「ディスクレシアのグレーゾーンにいるひすい、女にも男にも分けれられたくない理幹、書字の違和感により合理的配慮を求める心桜、両親と死別し養育里親の養子となった拓真、大人の期待に応えたい過食ぎみの小春」(p.330)の話です。また、化学物質のアレルギーも物語の中で重要な役割を果たしています。学校の同質性や社会の基準に適応できない者の物語だけでなく、(なんとか)適応できている者が適応できない者にどう関わったらよいか試行錯誤する物語でもあります。この小説を読むと、時と場合により、いかに学校が息苦しい空間に転化してしまうかが実感されます。学校は社会の縮図でもあります。月並みですが、社会全体で、もっと「きみの存在を意識」する必要があるなあと感じた次第です。

 明日から8月、そろそろエンジンかけていきまっせ!