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日本犬の誕生

 

日本犬の誕生

日本犬の誕生

 

 実はこちらの本も頂き物です。ありがとうございます。私と同年代の人が単著をまとめる時期にちょうど差し掛かっているのかもしれません。

私は犬界(?)とは疎遠で、印象論になりますが、コンパクトで資料として価値が高い本だと思いました。この本の主張を端的にまとめるなら、<日本犬>(というカテゴリー)は、昭和前期に「発見」(事後創作)されたもので、その「発見」にはナショナリズムの影響があったというものです。あたかも<日本犬>が鏡となり、明治から昭和時代までの<日本人>が写し出されている感じがしました。

昔読んだ本に、マルティン・ブーバー『我と汝 対話』という本があります。記憶ベースなので誤りかもしれませんが、この本の中に馬小屋の馬のエピソードがあったと思います。

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 

 ブーバーは、関係には「我-汝」(Ich-Du)と「我-それ」(Ich-Es)という二つがあると考えます。ブーバーは「我-汝」関係を説明するのに、馬小屋の馬の例を出します。馬小屋にいる馬と馴じんでいた少年時代のブーバーは、自分にとってその馬は「それ」というような事物ではなく、「あなた」と呼ばれるような「他者」だったと述べています。この箇所を読んだとき、ブーバーは馬を「他者」と考えるんだと印象に残っていました。かように、人間は動物と強い愛着関係を持ちます。

『日本犬の誕生』では、<日本犬>というカテゴリー(「それ」)の問題性についてうまく解明しているように思います。次は、人々と犬の具体的関係、愛着関係(カテゴリーに左右されたゆがんだ愛情の場合もあるかもしれません。)のエピソードなどをもっと読んでみたいなと思いました。

<憧憬>の明治精神史

 

<憧憬>の明治精神史 ―― 高山樗牛・姉崎嘲風の時代

<憧憬>の明治精神史 ―― 高山樗牛・姉崎嘲風の時代

 

半年以上前にいただいていた本です。ありがとうございます。先週末、やっと読み始め一気読みをしました。

まず大変な労作だと思いました。かつ、大変面白く読みました。この本で面白かった点、大きな特徴と思えるのは、次の2点でした。

【問題意識について】

まず、想像以上に美学、美学している点に驚きました。しかし、とても大事な問題提起がなされています。この本の中には、こう書かれています。

また、いわゆるカルチュラル・スタディーズの研究動向は、大衆文化や表象の分析などを通じて、実体的な「文化」の虚構性を暴き出している。しかし、美的価値の場合、まさに意図的につくられた虚構であるからこそ、かえって多くの人の心を強く惹きつけるともいえる。美の虚構性を指摘し批判することは、むしろ問題の矮小化であり、そもそも何故日本的な美が絶えず人々を魅了するのかという理由の解明にはつながらないのである。そこでまず必要なのは、近代日本の精神構造のなかで美意識が占めた具体的な位相を、歴史的過程に即して解明することである。(p.20)

この箇所を読んで、とあるカバー曲を思い出しました。

宇多田ヒカルSAKURAドロップス


宇多田ヒカル - SAKURAドロップス

井上陽水SAKURAドロップス (『宇多田ヒカルのうた』より)」


井上陽水 - SAKURAドロップス (『宇多田ヒカルのうた』より)

1本目は宇多田ヒカルの「SAKURAドロップス」、2本目は井上陽水のカバーです。井上陽水がこの思い切ったカバーを行うに当たって述べているコメントがあります。

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宇多田ヒカル、彼女の「せつなさ」はいったいどうしたことなんだろう。詩から、メロディーから、歌から、届いてくる、あの「せつなさ」の魅力に多くの人たちが魅了されている。彼女の、その感情の提出は日本人にとって残酷なほど一等のエンタテイメントになっているに違いない。

「宇多田ヒカルのうた -13組の音楽家による13の解釈について-」 特設サイト
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井上陽水は、宇多田ヒカルの「せつなさ」が「日本人」を、言い換えるなら日本人の美意識を喚起している、と考えているように読めます。そして、井上陽水はカバーで「SAKURAドロップス」の「せつなさ」を"殺し"にいき、宇多田が持つ楽曲のメロディ―ラインを浮きだたせるのです。

この井上陽水の解釈、カバーには虚を突かれる思いがしました。確かに宇多田ヒカルの楽曲にはせつなさの要素があると思います。私は、彼女の「For you」や「Colors」という楽曲に「せつなさ」を感じます。しかし、彼女の楽曲が、いわば「日本的」と呼ばれる美意識につながる可能性があるかもしれない、とは全く気づきませんでした。

今、私は「日本的」という危うい言葉を使っていますが、なお、"日本的美意識"という言葉で語ることには意味があると考えています。なぜなら、"日本的美意識"と呼ばれるものに、思わぬところで自分自身の感性が規定され、魂が揺さぶられることがあるからです。私が快いものが、同時に(特定の)他の人たちも快いと感じることがどう成立するか(してしまうか)を考えることはとても大事だと思います。

しかし、"日本的美意識"を不変なものとして、実体化して考えるのも危険でしょう。まさに引用にあるとおり歴史的過程を踏まえた検討が必要とされるのです。この本では、<憧憬>という概念をとおして、明治中期、美が社会の中でどう位置付けられたか、美を捉える様々な枠組みがどう変遷したかを歴史的に検討しようとするのです。

【「受容」と「変質」への注目】

この本の構成は、高山樗牛姉崎正治の思想を、時代順に追うというクラシカルなものです。が、読み始めて気づくのは、高山・姉崎の関係者を多数紹介し、かつ、歴史学、哲学、美学、宗教学、メディア論という様々な領域を横断するというかなりの荒業に挑戦しているということです。時代の層全体をつかもうとする強い意図が感じられました。

ただ、単に様々な領域に足を踏み入れるというだけでなく、筆者は一貫して各領域間の関係、特に「受容」という契機を重視しているようにも見えました。ドイツ哲学がどのように日本の知識人に読まれたのか、明治の知識人がどの時期にどの本を読んでいたのか、高山の思想がどう地方の青年に影響を与えたのか等々、思想が単独で実体的に存在するのではなく、関係のなかで成立していることにとても意識的であると感じました。

この観点から特に面白かったのは、「友交際」です。明治期に中央の文芸誌に地方の青年が投稿するイメージはあったのですが、地方の文芸サークル同士が自律的に関係を持ち相互に影響を与え合っていた(PCの世界でいうサーバ・クライアント構成でなく、ピアツーピア構成)とは知りませんでした。ここはメディア論としてぜひもっと続きを読んでみたいと思います。

あと、高山の<憧憬>の本質が斬新的理想主義であるというのも勉強になりました。教科書的には高山樗牛ニーチェ主義と言われており、なかなかそこから理想主義というイメージは出てきません。また、姉崎の箇所で紹介されている(「憧憬」という言葉を使用する)シェリングの思想とも高山・姉崎の両者は異質な気がします。シェリングは、後に実存主義唯物論的契機を指摘されるように、かなり異様な思想家です。社会、時代が異なることで、同じような概念のアクセントが違うことも勉強になりました。

他にも面白いところはたくさんありますが、印象に残ったところはこんなところでした。

皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ

週末に『皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ』を見ました。


『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』予告編

期待していたより遥かに良い映画でした。よくわからないけど、紛れもない傑作だという確信があります。本作がアメコミヒーロー物と違うということはは色々なレビューでも指摘されています。ただ、具体的にどう違うのか、違うとしたらどこの点かをずっと考えていました。色々なレビューを見るうちに、次のレビューにぶつかりました。

皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ | seimu.net

この批評を見るうち、両者の違いがおぼろげながらに分かってきました。アメコミもののヒーローは、人々の代わりに自分が犠牲になったり、逆に人々を導いたりすることが多い気がするのですが、人々と「共にあろう」とすることはあまりないかもしれないと。

 以前も書いたとおり、私は、アメコミ物流行のきっかけとなった『ダークナイト』は徹頭徹尾反民主的な映画だと考えています。

『皆はこう読んだ 鋼鉄ジーグ』では、ラストの終わり方や、主人公がスクーターに乗ってスタジアムに行くシーンなど、『ダークナイト』を意識しているシーンが散見されます。ただ、『ダークナイト』とは異なり、バットマンしか乗ることのできないバットモービルではなく、他の人(警察?)が乗っていたバイクを借り、スタジアムに向かうのです。また、この映画は、とても上手く街の風景をカメラに収めています。

友人がこの作品の隠れたテーマが「孤独」であると言っていて、話を聞いた当初よくわからなかったのですが、なんとなく見えてきました。人々と共にあることは大概にして煩わしく、英雄でない私達でも難しいものです。主人公は、力を得、喪失を抱え込む中で、人々と「共にあろう」と決断したのではないでしょうか。

日本ノンフィクション史

 

本書は、個々の作品にはあまり立ち入らず、日本においてノンフィクションという概念がどう成立したかをテーマとしています。特に、筆者は、沢木耕太郎においてノンフィクションの物語化が決定的となり、物語的ノンフィクション作品が一般に膾炙する反面、ノンフィクションが持つ記録性や事実性の側面が見失われがちになったと主張します。

筆者の主張を私なりに言い換えるなら、ノンフィクションが小説化する際に失われるもの、得られるものに注視せよということではないでしょうか。ノンフィクションを読むときに感じるのは、世界が自分の想像を超えているという感覚です。事実の重みがちっぽけな自分の想像力を凌駕する、その瞬間に快楽を覚えるのです。ただ、事実を提示するだけでは足りないとき、また、事柄自体の意味を深く探りたい場合に、虚構が力を発揮します。本書でも、開高健が、『輝ける闇』で、ノンフィクションで昇華できなかったことをフィクションとして昇華したと紹介されています。

さらに、この本の中で改めて気づかされたのは、ノンフィクションに関するメディアの幅広さです。第3章「トップ屋たちの蠢動」では雑誌記者たちの集団的な記事作成が、第5章「テレビの参入」ではノンフィクション概念の成立に影響を与えたTVドキュメンタリーがテーマとなっています。いずれも小説のように単独の著者が執筆するというモデルで作品が作成されていません。私自身、幼い頃読んで興奮したのは、漫画の偉人伝や兵器の図鑑でした(ちなみに、最近では、週刊誌記事も大好物ですが(笑)。)。
多くの人々に影ながら影響を与えている読み物が、分業化され集団制作された記事や映像であることも多いはずです。本書で、このような読み物もきちんと射程に捉えなければならないという点を再確認することができました。

ノンフィクションの手頃な通史がない中、とても勉強になる本でした。本書で紹介されている個々の作品の評価については、また、個々の記事の中で紹介できればと思っています。

人生タクシー

 『人生タクシー』(ジャファル・パナヒ監督)を見ました。

 反体制的な活動のため20年間の映画製作を禁じられたイランのパナヒ監督。彼の『これは映画ではない』は、その環境を逆手に取り、「脚本を読んだり動画を撮影したりするだけでは映画製作にならないのではないか」というコンセプトの下、「映画が映画であることはどういうことか」という根本的な問題に取り組んだ知的興奮に満ちた映画でした。


ジャファール・パナヒ監督『これは映画ではない』予告編

 『これは映画ではない』の出来があまりに良かったために、『人生タクシー』には大変期待していました。様々な映画紹介によれば、パナヒ監督自身がタクシードライバーとなり、様々な人をタクシーを乗せ、現在のテヘランの市民生活を見せる映画ということでした。一種のフェイクドキュメンタリーとなのかなと思い、劇場(新宿武蔵野館)に足を運びました。


ジャファル・パナヒ監督作!映画『人生タクシー』予告編

 以下、内容的に正確ではないかもしれませんが、印象に残ったことを書きます。

 上映開始後約30分間は、タクシーの中で男性客と女性客が死刑制度について論争を始めたり、急病人が担ぎこまれたりと様々な出来事が起こるのですが、正直つまらない展開が続きました。どう考えてもヤラセとしか思えない映像で、フェイクドキュメンタリーとしても出来があまりに悪いのです。パナヒどうしたんだ、と思ったのですが、彼の姪っ子(小学生)が登場し、突然、映画が加速し始めます。
 姪っ子は、学校で映像を撮る宿題が出た、いろいろ変な(政治的・宗教的)制限があって自分が撮った映画を上映することができなくなった、とパナヒに言います。パナヒは姪っ子にどんな映像を撮ったのか聞いたところ、(姪っ子の)姉に求婚しにきたアフガニスタン人がいたが自分の家では取り合わなかった、あまりにしつこいので親戚がその人を袋叩きにした、その一部始終を撮影したのだと、とんでもないことを言います。イランでなくても、倫理的にそのような映像を上映することは難しいでしょう。小学校が上映をやめたのも理にかなっています。

 さらに、姪っ子は、パナヒ監督が車から離れている間に、路上の少年をデジタルカメラで撮影し始めます。結婚式のカップルが落としたお金を拾った少年に、そのお金をカップルに返してほしい、美談となるからそれを撮影したいと持ち掛けます。ヤラセの提案です。少年は断り、姪っ子は失望するのですが、そのシーンの後にパナヒが車に戻ってきます。「ヤラセの提案がなされたことを(少なくとも撮影時は)監督が知らない」というヤラセであるというメタ的な構造を持つ映像をとおして、映り込み映像といわれるものでも意図的なものがあるのだ、という監督のメッセージを感じてしまいます。

 『これは映画ではない』のテーマが「映画が映画であることはどういうことか」であったのに対し、『人生タクシー』のテーマは、映画という枠組を超え、「映像を見る/見せることはどういことか」というものだと私は考えています。

 現在は映像があふれている時代です。『人生タクシー』のなかでも、タクシー内の固定カメラ、パナヒのスマートフォン、姪っ子のデジタルカメラ、刑務所のカメラに至るまで様々な撮影機器が登場します。映画の中でもそれらの機器で撮影した映像が幾度となく挿入されます。そして、誰もが撮影した映像をインターネット上に公開できる時代でもあります。『人生タクシー』は、イランの検閲制度という社会制度の批判をとおして、「映像を見せることはどういうことか」という現代的で本質的な問いにまで至る知的刺激に満ちた作品だと感じました。