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(月3回以上更新目標)

現在進行形の道徳的戦場へヤングアダルトを連れていく~梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』論(後篇)

(前篇はこちらから)

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(2)『僕は、そして僕たちはどう生きるか』

梨木は『君たちはどう生きるか』がブームになっている一因として、今の大人たちが昔の大人たちの「育む力」に圧倒されているからではないかと推測している。

我々は、共有する世相への不安とは別のところで、当時の社会がまだ保持していた、父性、母性の濃密さ―この作品に滲む、「子どもたちを守りたい」という「育む力」の強さにもまた、密かに圧倒されているのではないだろうか。(梨木香歩「今、『君たちはどう生きるか』の周辺で」『図書』2018.5 p.5)

 大人が子どもを育む存在として登場する『君たちはどう生きるか』とは異なり、『僕は、そして僕たちはどう生きるか』では子どもを傷つける存在としての大人にフォーカスが当てられる。

『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、14歳の主人公コペルが、おじさんで染織家のノボちゃん、飼っている犬のブラキ氏と一緒に、友人のユージンの家にヨモギ採りに行き、そこでユージンの従姉のショウコ、ショウコの知り合いのオーストラリア人のマークと一日を過ごす話である。ユージンの家は、ユージンのおばあちゃんが不動産業者の勧誘を断り続けたため開発の影響から逃れ、様々な野草が生い茂る家だった。両親の離婚もあり、ユージンはその家に一人で住んでいる。そして、ユージンは不登校になっていて、コペルはその原因がわからなかった。

物語の途中、知らない女性がこのユージンの家の敷地にある墓場に住んでいることがわかる。その女性は、ショウコの友人で、インジャ(隠者)と自分を名乗っている。このインジャの登場で物語が加速し始める。

なぜインジャはユージンの家の庭に住み着いているのか。それは、彼女が室内で生活することができないからだ。インジャは、図書館で「信頼のブランド」の出版社が発行した「十代の子が知っておくべき今の社会のこと」が書かれている本を読む。その本は、アダルトビデオの監督が書いた本だった。インジャは両親の離婚がきっかけで家出しお金に困っていたため、その本に記されていた筆者のメールアドレスに興味本位で連絡を取ったところ、「密室の中で数人の男性と一緒に過ごす」様子を撮影したいと言われ承諾してしまう。そこで撮影されたものはおぞましいものだった。

インジャのエピソードは、コペルが書いた手記という形で紹介されている。ここでコペルは、この本が「巧妙な素人モデル募集広告」(p.126)だったのではないかと疑う。そして、若い読者をアダルトビデオの世界に勧誘するため、監督が本の中で「普通」という言葉を巧妙に使っていると分析する。

けれど、この監督が使っている「普通」は、そういうものではない。彼は、「普通」という言葉を、女の子の、演技ではない反応、という意味で使っている。「その人の普通が撮りたい」と、繰り返す。

けれど、「普通」という言葉にはそれ自体に、あらかじめ仕込まれた「絶対多数の大義」みたいなものを連想させる機能がある。彼の「普通」っていう言葉は明らかにそれとは違う。違うにもかかわらず、「普通」という言葉は、発するだけで、その機能を巧妙に作動させる。(p.127)

 このアダルトビデオの監督は、自らの商売のため、言語を駆使し、子どもを搾取したとコペルは考えるのだ。これは、『君たちはどう生きるか』のおじさんが自らの知識をコペル君の成長のために使ったのとは正反対の行動であるといえよう。

ユージンの不登校のエピソードにも、子どもを傷つける大人が登場する。コペルは、ユージンに対し、不登校の理由を教えてくれないことに傷ついていることを伝える。ユージンは、不登校になった理由は、担任の教師のある行為だったと打ち明ける。

離婚をきっかけにユージンの両親が家を離れることとなり、ユージンの家で大事に育てていたニワトリのコッコちゃんを学校で引き取ってもらうことになった。学校にニワトリを連れて行ったところ、担任が突然、命の大切さを知るため、ニワトリを解体して食べようとクラスで提案する。ユージンに彼の母親の許可を得たと言うのだ。その担任はユージンとそりがあわない教師だった。ユージンは、クラスの好奇心に満ちた雰囲気に負け、「自分の気持ちとは関係なく、体がそう動」き、ニワトリを調理することを認めてしまう。ニワトリを食べた日の翌日の様子を、ユージンは次のように語る。

ニワトリはその日、唐揚げや炊き込みご飯やさまざまに調理された。けれど僕は手をつけられなかった。杉原はそれを見ていた。次の日、給食が終わった後、杉原は僕のそばに来て、さっき君が飲んだスープは、君の一部になって永遠に生きていくんだよ、って例の安易な自己陶酔のなかで、すごい真理を教えるようにささやいた。でも、本人のそういう「熱血漢ぶり」とは裏腹に、自分で意識しているのかいないのか、悪趣味ないたずらが成功したかどうかをしたなめずりしながら僕の反応を見ている、そういうレベルの低い好奇心ではち切れそうなのが分かった。僕はすぐに吐いた。鼻の奥がジンジンした。吐きながら思った。

なんでこんなことになったのか。

僕は集団の圧力に負けたんだ。(pp.215-216)

 それを聞いたコペルは衝撃を受ける。なぜなら、真相が初めて知ったことだったからではなく、無意識のうちに気づいていたことだったからだ。

君たちはどう生きるか』では、コペル君は上級生の暴力の恐怖におびえ友人を助けられなかった。『僕は、そして僕たちはどう生きるか』では、ユージンもコペルもクラスの「雰囲気」に飲まれ、ニワトリを犠牲にしてしまう。ユージンがニワトリを殺したこと、コペルがそれを見て見ぬふりをしてしまったことは、彼らの主体的な行為でもあり、暴力におびえての逃避行動よりも彼らに心理的に深い傷を与えることだろう。

性暴力と教師のハラスメントという、現代を生きる子どもたちを巡る未解決で「複雑」な問題を真正面から主題とした筆者の姿勢に私はとても共感する。また、大人に頼れないまま、「僕」「そして僕たち」が手探りで、それらの問題に立ち向かわなければならないと考える梨木の現状認識にも共感する。 

(3)おわりに

(1)で『君たちはどう生きるか』が取り扱った主題が教科書的ではないかという指摘を行ったが、中野重治は吉野の「言葉づかい」に違和感を覚えるとして次のように述べている。

 「しみじみと感じたり」、「しみじみと心を動かされた」、「真実心を動かされた」「青々と澄んだ秋の空」(中略)「悲しみに身をまかせて」、こういう言葉は不適当に感じられる。無論こういうことは、少年の生活にもあることには違いないが、そのあらわれ方は、こういう言葉で現わされたのとは違つたあらわれ方をするんではないかと思う。こういう言葉や、言葉を綴っていく調子は、かなり大人のもので、しかも藝術家の言葉づかいとも違っている。(中野重治「二つの本」『中野重治全集第二十五巻』筑摩書房 1978 pp.424-425)

 中野は、吉野が世界を子どもの視点から追体験しておらず、それが「言葉づかい」に影響を与えていると考える。この傾向は、『僕は、そして僕たちはどう生きるか』についても少なからず当てはまる。インターネット上の『僕は、そして僕たちはどう生きるか』評でも、作中の人物の言葉が妙に理屈っぽいであるとか、作者の意見を代弁しているに過ぎないのではないかとかいう意見が見られた。

baobab.main.jp

ameblo.jp

私はこれらの批判は一定の妥当性を有すると考えている。また、本稿では詳しく触れられないが、作品中、時々、少年が語るとは思えない、社会運動的な言語が混入しているのではないかと感じることもあった。

しかし逆にその分、著者の梨木氏の現代社会への問題意識が、かなりストレートに読者に伝わってくる本である。好みが分かれるとは思うが、本書を手に取り、ヤングアダルト作品と現実進行形の道徳的な諸問題との関係についていろいろ考えてみてはどうだろうか。

(この作品は、たまたま友人から声をかけていただいて、同人誌『蜃気楼』の書評欄に掲載させていただいたものです。紙版では違和感についてもう少し詳しく書いていますが、この箇所は自信がないためインターネット公開版では割愛しました。)

現在進行形の道徳的戦場へヤングアダルトを連れていく~梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』論(前篇)

 梨木香歩著『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、理論社ウェブマガジンで連載された後、2011年(平成23年)に書籍化された本である。(本稿では、岩波現代文庫版を使用する。本文括弧内のページ数は岩波現代文庫版のものである。梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫岩波書店 2015)

 タイトルからもわかるように、この本は吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を意識した本である。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

梨木はあるインタビューの中で『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、『君たちはどう生きるか』で提起された「どう生きるか」という問いへの「返事のような形」として生まれたと述べている。

www.chunichi.co.jp

『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、『君たちはどう生きるか』へのどのような「返事」となっているのだろうか。本稿では『僕は、そして僕たちはどう生きるか』について、『君たちはどう生きるか』と比較しながら論じてみたい。

(1)『君たちはどう生きるか

最近、本屋に行くと『君たちはどう生きるか』が平積みされている。昨年出版された漫画版の売れ行きも好調のようである。

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 

 私も高校時代にこの本に挑戦したが、難しすぎて、また、実感がわかず途中で読むのを止めてしまった。

君たちはどう生きるか』は、『日本小国民文庫』という児童向け双書の中で「倫理」をテーマにした巻として、当時「哲学を勉強していた」吉野源三郎が執筆した。出版されたのは、日本が中国大陸に侵略を始め、軍国主義が社会に跋扈する1937年(昭和12年)のことである。吉野は、この本をコペル君というあだ名を持つ15歳の少年の日常のエピソードと、「大学を出てからまだ間もない法学士」のおじさんが書いたノートで構成している。吉野の中にはこの本を書き始める際、伝えたい内容(哲学的な主題)が頭の中にあっただろう。ただ、それを効果的に伝えるためにも、物語形式とする必要があると彼は考えた。この構成から、『君たちはどう生きるか』は、児童文学とも、児童向けの一種の人生読本とも読み取れる本となっている。

吉野が伝えたかった哲学的な主題とは何だったのか、おじさんのノートに書かれている内容から推測してみることする。そのノートでは、まず、自分を客観視すること(「ものの見方について」)や自らの経験を大事にすること(「真実の経験について」)の重要性が説かれる。その後、ニュートン万有引力の発見の話から「生産関係」という社会科学的(マルクス主義的というのが正確かもしれないが)概念に触れた後(「人間の結びつきについて」)、社会に抜き差しがたく存在する貧富の差について語られる(「人間であるからには」)。ナポレオンの生涯を通して歴史と英雄について考え(「偉大な人間とはどんな人か」)、後悔や罪責感という人間の負の経験の意味を伝える(「人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて」)。また、ノートという形式ではないがコペル君との会話の中で、インドのガンダーラの仏像がギリシャ人によって作られたエピソードを通して、文化には国境がないことが語られる。このようにおじさんが触れた主題を並べてみると、社会科学の要素が色濃く出ているものの、真善美という哲学の基本的な問題がバランスよく配置されているといえる。しかし、逆にとても教科書的な構成であるともいえるかもしれない。今回通読してみて、高校生の時の自分がこの本を読めなかった原因がわかった気がした。その当時の私には、どこか教科書を読んでいるような感じがしたのだろう。

では、コペル君のエピソードにはどのようなものがあるのか。最も紙幅が割かれているのは、「雪の日の出来事」である。漫画版でもこのエピソードを前面に出し、全体のストーリーをわかりやすくしようとしている。コペル君の友人の北見君が、生意気だという理由で上級生から目をつけられ、ある雪の日、私的制裁を受けてしまう。北見君の友人は皆殴られるときは一緒に殴られようという約束をしていたのにもかかわらず、コペル君だけは勇気がなく制裁の場に出て行くことができなかった。コペル君はこの日のことを後悔し、おじさんの助言を参考にしながら、北見君や友人に率直に手紙で謝った、というのがそのエピソードの内容である。

このエピソードから勇気を持つこと、誠実であることの重要性を読み取り、共感を寄せる読者もいる。

『君たちはどう生きるか』が大人に売れるワケ | ホウドウキョク

しかし、私はこのエピソードには違和感を抱いた。学校でこの私的制裁が問題とされたのは、北見君やその友人の親が学校に苦情に言ったからである。北見君の親は「予備の陸軍大佐」であり、水谷君という友人の親も大会社の社長である。ここで意地悪な想像をしてしまう。上級生の親がもっと社会的な影響力がある人だったら、学校はどのような対応を取っただろうか。この私的制裁を隠蔽した可能性さえあるのではないだろうか。

さらに、この本を読んで不思議に思ったのはおじさんの人物像である。哲学的な主題をわかりやすい筆致で解説するノートを読む限り、おじさんの博識は疑うべくもない。原作ではおじさんが何者かは全く描かれず、漫画版ではおじさんは編集者として造形され直されている。しかし、私は、おじさんの職業ではなく、彼があの戦争中どのように生きたのかに興味がある。軍隊に入った後、同じ部隊にいる者が私的制裁を受けるところを彼は目にしたかもしれない。そのとき、おじさんが上官に抗議できたかというと難しいのではないだろうか。

結局、私が『君たちはどう生きるか』に抱く違和感は、様々な面白いエピソードが紹介されてはいるものの、各エピソードが複雑さや矛盾に欠けている点、それゆえ現実の複雑さに対応できる「倫理」が提示できていないのではないかという点にある。『僕は、そして僕たちはどう生きるか』のある登場人物はこう語る。「でもさ、問題はもっと複雑だってことが分かってきた。そうしたら、何かだんだんよく分からなくなってきた」(p.151)。では、『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は、どのように複雑な現実を描くのだろうか。

(後篇はこちらから)

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人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

ノンフィクションマラソンラソン30冊目は『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』です。

 本書は、現在生じている人間観の変容にかんする調査報告である。
そこで大きな役割を演じているのは、急速な発展をみせる認知と進化にかんする科学と技術である。認知革命と呼ばれる知的運動から生まれた認知心理学行動経済学、人口知能研究。遺伝子の観点から進化をみる血縁淘汰説(利己的遺伝子説)によってアップデートされた社会生物学進化心理学、人間行動生態学。こうした諸科学は、従来の人間観に改訂を迫るような知見をもたらしている。(p.6)

最近、話題となっているこの本。少し前の連休にイベントも聞きに行きました。下北沢にある、本屋B&Bというイベント型の書店にも興味があったので、一石二鳥でした。

bookandbeer.com

本屋B&Bのイベントでも話がありましたが、この本は、刊行を予定している著書の助走段階での「報告書」として書かれているとのことです。進化論や認知革命から、昨今のシンギュラティや人新世の議論まで、話題のトピックが紹介され、その思想的な勘所がわかりやすく紹介されています。

社会人として働いていると、目先の業務知識に目が奪われ視野が狭くなる傾向があります。これは私の思い込みかもしれませんが、大きな話をする人を、目先の問題を解決できない「評論家」といってバカにする風潮もあるような気がします。それゆえ、この本を読んでいる最中、知的に大きく背伸びし、リラックスしているような感覚になりました。

また、この本には、的確な要約・解説を超え、時々筆者の個人的な思いが見られる論文もあります。特に「見田宗介」論は面白いです。本人がそう思われているかどうかはわかりませんが、筆者が目指しているモデルが、<青年>でもあり<大人>でもある見田宗介なのではないかと思いました。

『ワンダーウォール』雑感

www6.nhk.or.jp

話題のTVドラマ『ワンダーウォール』を見ました。『ワンダーウォール』とは吉田寮廃寮問題を扱ったNHK京都放送局制作のTVドラマです。脚本が渡部あやさんということで、以前見た『その街のこどもたち』のことも思い出しました。

www.youtube.com

『ワンダーウォール』『その街のこどもたち』両方のドラマに共通するのは、「夜」が魅力的に描かれている点です。

その街のこどもたち』では、阪神淡路大震災慰霊祭前の、2人の主人公(佐藤江梨子さんと森山未來さん)が神戸の街を歩きます。2人の会話を通じて、人には伝えることができなかった心の傷が浮かび上がってきます。『ワンダーウォール』では、冒頭に、主人公のキューピーが四条河原町のバイトを終え、近衛寮(吉田寮)まで戻るシーンがあります。そして、寮生達が学生課に団体交渉しにいった後の、それぞれの寮への思い、今の社会への想いを話しあいます。

両作品で描かれる「夜」とは何なのでしょうか。それは、迷いや、試行錯誤、葛藤を許す時間なのではないでしょうか。

両作品とも「夜明け」のシーンで終わります。いくら迷いの中にいようが、学生はいつか社会の中に出ていかざるを得ません。彼ら・彼女らが入っていく「昼」の世界は、吉田寮を壊すような経済的合理性が貫徹した世界でしょう。寮がなくなることは、あの「夜」の時間がなくなることを意味します。この社会の中に、『ワンダーウォール』が描く「夜」を許容する余白がもっとあれば、より人に優しい社会になるのになと思います。

雑駁ですが、『ワンダーウォール』を見てそんなことを感じました。

方丈記私記・方丈記

ノンフィクションマラソン28冊目、29冊目は『方丈記私記』『方丈記』の2冊です。実はこの文章は、「1冊の本を書くための「本の読み込み方」」という講座に参加して書いたものです。講座からは大変な示唆を受けました。それを含め、最近考えたことは別の記事に譲るとして、まずは書いた文章を記載します。

www.asahiculture.jp

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方丈記私記』私記

方丈記私記 (ちくま文庫)

方丈記私記 (ちくま文庫)

 
方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

方丈記私記』は、堀田善衛東京大空襲に逢ったときの経験がきっかけとなって書かれた本である。一般に『方丈記』は「無常」を説いた本であると言われている。堀田もそのような読み方に影響され『方丈記』に興味を持てないでいた。東京大空襲当時、堀田の「親しい女」が深川あたりに住んでいた。深川は空襲による火災が激しく、堀田はその女性が火に焼かれたことを確信する。その時、彼の脳裏に「火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移り行く。その中の人、現し心あらむや」という『方丈記』の一節が突如浮かぶ。なぜその一節が突如浮かび自分の心を打ったのか。その問いに答えるため、堀田は自分の戦争体験を手がかりにして『方丈記』を読み直す。

読み直しの中で、堀田は長明の記述の具体性に気づく。その具体性を支えているのは、長明の野次馬根性だ。長明は用もないのに至るところに顔を出し、果ては鎌倉にいる源実朝に会いに行っている。フットワークの軽さと確かな観察眼で、長明は平安末期に起こった大火、飢饉、大地震などの記録を残す。『方丈記』は一種の「ルポルタージュ」であるとまで堀田は語る。このような『方丈記』の即物的な表現と対比的に論じられるのが、藤原定家を始めとする貴族達の和歌である。彼らが詠う和歌の中には災害の痕跡が全く見られない。あたかも目の前の現実を全面的に拒否するかのように、本歌取りに興じる。両者の表現を対照させ、堀田は次のように述べる。

 定家や後鳥羽院などの一統、朝廷一家が、悲惨きわまりない時代の現実はもとより、おのもおのもの「個性」あるいは「私」というものも捨象してしまった、いわば「芸」の世界、芸の共同体を組織し、その美学を高度に抽象化すると同時に、反面でのマナリズム、類型化をもたらすべくつとめていたとき、長明は「私」に帰った。すなわち方丈記に見る散文の世界がひらけて出て来るのである。(p.117) 

そして、堀田は、貴族達の「芸」の世界が日本の社会構造(堀田は天皇制を特に意識している。)に根を持つと考え、長明はそこに馴染まなかったことから新たな表現をなしえたと考えるのだ。

さて、今回の課題は「ノンフィクションを読み込み、それを活かした体験記を記す」というものである。『方丈記私記』を読み、その後『方丈記』そのものも読んだが、私には堀田のような『方丈記』読解はとても出来ないと感じた。『方丈記』だけ読んでいただけでは、新古今和歌集との比較など思いもつかないと思う。堀田の鋭利な読解に比べられるものでもないが、『方丈記私記』『方丈記』を読み私の頭に浮かんだことを二つほど記してみたい。一つはあるインタビューのこと、もう一つは「すみか」(住居)に関することである。

あるインタビューとは、昨年、NETFLIXで放映された明石家さんまのインタビューである。インタビューの中で、さんまは同世代の友人たちが花鳥風月に興味を持ち始めたことに気づき、自分はそうはなりたくないと述べている。「野原に咲く花を見たら踏みつけよう、鳥を見たら石を投げよう」と、さんまはインタビューの中で笑いながら語っている。さんまは、なぜ花鳥風月を拒否するのか。それは、花鳥風月は「老い」てわかるものだと彼が考えているからだ。常に「若く」あるために、彼は花鳥風月を拒否する。ここでの「老い」「若さ」は、肉体的というよりは精神的なものであろう。笑いには色々な要素がある。人をバカにしてとる笑いもある。しかし、笑いは、本質的には常識を疑い相対化するものなのではないだろうか。花鳥風月こそ笑いの対象となるはずのものなのに、それに取り込まれてしまってはお笑い芸人としての死を意味する、と彼は無意識的に考えたのだろうと私は思う。

また、堀田は『方丈記』が、世界的にも珍しい「住居についてのエッセイ」であると述べている。『方丈記』の住居の記述についてもいろいろ思うところがあった。私は今四十歳を超えたくらいの歳だが、若い頃と違って住居について考えることが増えている。知人にはローンを組んで住宅やマンションを買う人が増えている。ローンを組むと多くの人は今の仕事をやめられなくなる。住居は、人間が生きるための最も基本的な要素であるとともに、夢でもあり、しがらみや執着をもたらすものでもある。やめられない仕事を持つ人間がどこまで自由にものを言うことができるか、不安に思ってしまう。長明は組み立て式の住居に住み、極力人の力を借りず生活を組み立てる。しがらみや執着をなくすことで、長明は自由にものを語る。遂には、自らの質素な庵の生活に自分が執着しているのではないかと自問するまで、自らに対する批評精神を緩めない。このような長明の生き方は、私はとても精神的に「若い」と思う。

実は「老い」「若さ」という言葉は、『方丈記私記』の中にも出て来る。それは、長明が日野の庵について語る語り口の箇所である。「それは、何かを、何物かを突き抜けて出たことにある軽さ、軽みである。文の体としては、「老」などというものではまったくなくて、むしろ、若い、とさえ言えよう」(p.182)と、堀田は長明の文体を評している。歴史意識や散文精神という観点から『方丈記』を読んだ堀田は、私の感想に納得してくれるだろうか。ともあれ、私が『方丈記』を読んだとき最も印象に残ったのは、長明の精神的な「若さ」であり、「軽さ」であり、自由を求める批評精神だった。