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(月3回以上更新目標)

2019年9月中旬報告

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すっかり涼しくなってきました。連休で遠出しようと思ったのですが、都合が悪く、結局、先週、今週と川崎、横浜あたりをうろうろしていました。写真は、赤レンガ倉庫から撮影した写真です。私も客船に乗ってどこかに行きたい。

先週は、新海誠の「天気の子」を見てきました。評判はあまり芳しくないかなと思うのですが、私は結構楽しめました。明日は、タル・ベーラ「サタンタンゴ」に挑戦しようとかと思うのですが、体力持つかな。。。公式HPを見てみると「スーパー・ササダンゴ・マシン」のコメントがあり、ちょっとウケました。スーパー・ササダンゴ・マシンのプレゼンプロレスも面白いですよ。

最近、はまっている猫動画なのですが、ちょっとした事件に驚愕しました。下の動画見てください。


ご報告があります。

映像の境域

ノンフィクションマラソン46冊目は『映像の境域』です。最近、ドキュメンタリー映画について突っ込んで考えてみたいと思っているので手に取りました。

映像の境域: アートフィルム/ワールドシネマ

映像の境域: アートフィルム/ワールドシネマ

 

 といいつつ、この本は、ドキュメンタリー映画だけを対象とした本ではありません。映画には映像の要素、音の要素、物語の要素という3つの要素があると思うのですが、この本では、映像独特の要素(領域)とは何かが、たくさんの映画を参照しつつ考察されています。前半の映像詩の紹介(特に、映像と音との関係を意識したレトリスム映画の紹介が面白い。)も興味深かったですが、最後の松田政男論が面白いです。

(参考)レトリスム | 現代美術用語辞典ver.2.0

その論の中に出てくる、次の箇所を見てください。

わたしたちが映画批評の立場から、風景映画とそこから導きだされた風景論をあつかいたいのは、カメラによって切り取られたフレームのなかに、ネットワーク化された権力の新しい形態や管理システムが否応なく滑り込んできているのではないか、と考えるからだ。気になるのは、実際に人間が見る風景にではなく、映画として撮られたショットの風景のほうに、それらがより顕在化されたかたちで記録されるか、である。(p.247)

確かに、映画に限らず写真でもそうですが、実際の目で見る風景そのものと、ファインダー越しの風景というのは、違う質を持っているなと思います。仮にそのまま目の前にある現実を写し取ったとしても、映画の中には違う質が出てくるというのはよくわかりますし、その要素こそが映像領域といえるかもしれません。

ニック・ランドと新反動主義

ノンフィクションマラソン45冊目は『ニック・ランドと新反動主義』です。

カルチュアルスタディーズのように対象から距離を取って社会批評を加えるのではなく、周縁文化の只中に直接立ち会うことで強度的な潜勢力を掴み取ってくること。(p.139) 

随分前から現代思想の流れには付いていけなくなっていて、内容を理解できるか一抹の不安がありましたが、英米圏の現代思想の中の「新反動主義」的な流れについてわかりやすく解説がなされていてとても勉強になりました。このように最新の動向をコンパクトにリポートするのもノンフィクションの1つの手法だと思います。

ほぼ新刊ですし、内容は直接本を読んで確認してもらえればと思います。私はこの本を読んで、昔、とある社会学の教科書に記載されていた記述に驚いた経験を思い出しました。記憶ベースなのですが、そこには、福祉政策は共産主義の実現を阻むものであり、福祉政策は資本主義的で、本質的に欺瞞であるということが書かれてありました。当時、左派政党は福祉政策に力を入れていると思っていたので少し意外な感があったのです。その記述を読んで、現在の人々が抱えている個別の課題ではなく、思想が優先されるとこんなことになってしまうのだなというのを感じた記憶があります。

『ニック・ランドと新反動主義』で取り上げられる思想は、反人間主義的な思考です。人間主義が思想的な限界があるのはそうなのかもしれません。が、資本主義の流れを加速させそれを内破させると言われても、そのようなことがどのような犠牲を産むかを考えると微妙な感じがします。

あと、この本で勉強になったのは、引用にもあるように、ニック・ランドらの思想がクラブミュージックという音楽の創作の磁場で受け入れられていたという点です。これだけ読むと、かなりトランプとは遠い感じがするのですがね。(※ニック・ランドはそのレイシズム・セクシズム的側面が批判されているらしいのですが、そこらは不勉強ですのでこの記事では記載しませんでした。)

2019年8月近況報告

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少し涼しくなってきましたが、今年の夏も暑かったですね。夏に撮った写真を見直したところ、コメダ珈琲で涼んで本を読んでいた時の画像が出てきました。が、これは、ダイエットしている人間が撮ってよい画像ではないぞ・・・。なんだこれは。

結構、動画を見るのが好きなのですが、最近、↓の動画をよく見ています。その話を友人にしたら、ちょっと疲れているかもしれないからゆっくり休んだ方がよいよといわれました。そうかなあ。


大好きな耳掃除でウットリな猫

テレビは男子一生の仕事

ノンフィクションマラソン44冊目は『テレビは男子一生の仕事』です。

テレビは男子一生の仕事: ドキュメンタリスト牛山純一

テレビは男子一生の仕事: ドキュメンタリスト牛山純一

 

「しかし、私は新聞記者を超える放送記者になろうとは思わなかった。学術の知識、演劇の理論、映画の方法、 新聞記者の取材経験などを、新しいテレビメディアに打ち込んで発酵させてみたい。若者はそんなことを考えていた。」(p.69)※牛山の東京新聞連載からの孫引き箇所

大島渚に『忘れられた皇軍』という傑作TVドキュメンタリーがあります。このTVドキュメンタリーは日本テレビの『ノンフィクション劇場』シリーズの一番組として放映されたのですが、『ノンフィクション劇場』のプロデューサーを務めていたのが牛山純一です。今回読んだ『テレビは男子一生の仕事』は、名プロデューサー牛山純一の一生を追ったノンフィクションです。

この本を読んで少し驚いたのは、牛山の交友範囲の広さです。大島渚土本典昭らとの交友があることは知っていたのですが、彼らの思想とは真逆に思える中曽根康弘自民党系の政治家との交流、特に政治評論家の三宅久之と深い友情関係を結んでいたことは初めて知りました。また、私たちが昔よく見ていた番組に関わっていた人々(『ニュースステーション』、『朝から生テレビ』の企画・制作を手掛けた小田久栄門など)も、この本に多数登場します。牛山がTVドキュメンタリーに賭けた思いや実践(映像人類学など)も興味深かったのですが、数多くのTV関係者のいわば「ハブ」ともいえる存在であったという点が印象に残りました。

最後に、本筋とは離れるのですが、土本典昭が『ノンフィクション劇場』の頃を振り返る中で、「テレビで沖縄問題と差別問題、原発問題を扱うのはシビアでした。日韓問題もね。」(p.159)と語る箇所があるのですが、昨今のテレビに関する事件を見てもそのシビアさを痛感します。