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(月3回以上更新目標)

航路を決める(22年5月)

桜の季節になったと思ったら、もう夏を感じさせる気候となっています。いかがお過ごしでしょうか。年度末・年度始めは例年どおりせわしなく、日々の生活に忙殺されていました。上の画像は、友人と行った水元公園の水辺の画像です。東京にこれほどの敷地の公園があるとはという感じです。ゴールデンウィーク中に行ったのですが、沢山の人でにぎわっていました。

最近観た映画で面白かったのは、アレクサンダー・ナナウという、ルーマニア系ドイツ人監督のドキュメンタリー作品(『コレクティブ 国家の嘘』『トトとふたりの姉』)です。『コレクティブ 国家の嘘』の予告編を見た際は面白い作品なのかなと半信半疑だったのですが、観終わった瞬間、かなり感動していました。政府の悪事の告発にとどまらず、政府の悪事に向き合う人々の想いや感情をカメラに収めている点に、彼の作品の可能性を感じます。また、『コレクティブ 国家の嘘』、『トトとふたりの姉』ともラストが素晴らしいです。1記事立てて書いてみようかなと思っています。

youtu.be

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航路を決める(22年4月)

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新年度が始まりました。新年始まって以来、多忙でなかなかブログを更新できなかったのですが、月3回は更新したいものです。

ミドルエイジ・クライシスなんて言っていた時期も過ぎ、既に人生の後半戦に入ってしまいました。これまでさしたる実績や成果も上げてこなかった人生だったな、若いころの大法螺はどうやって回収したらよいのかなと感じる日々です。

上の写真は、家の近くにある中川公園の桜です。亀有香取神社という神社に行っておみくじをやったところ、↓のような結果が出ました。ホントにそうだなという内容です。迷信深くてすみません。

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働き始めてからは環境に適応しようとしすぎて自分を見失うことが多々ありました。これから、少しずつでも自分が楽しいと思えることを積み上げて、自分の人生の主導権を取り戻していきたいと思います。

今期は、放送大学は「心理学概論」「現代教育入門」という2科目を履修します。大学1年生になった気分で楽しみです。今まで自分が考えてきたことを踏まえ、1歩ずつ自分の思考を固めていければと思っています。

遅まきながら、人生の「航路を決める」シリーズが始まります。

航路を変える(22年3月)

読者の皆様。お元気でお過ごしですか。政治的なことを書くことは控えているのですが、今回のロシアによるウクライナ侵攻は許されるべきことではありません。国際紛争を解決するための手段が武力行使であってはいけないのです。この基本的前提は押さえるべきです。

最近、「ウインター・オン・ファイアー」を観ました。この作品は、ウクライナの2014年マイダン革命を取り上げた作品です。

ja.wikipedia.org

この作品はすごいです。まず「ベルクト」という治安部隊の暴力がすごいです。最後にはデモ参加者を水平射撃で射殺しています。国家の暴力装置とはこのようなものだと映像で分かってしまいます。また、それ以上にデモ参加者の熱量が半端ないです。デモでウクライナ国歌が流れるのですが、ナショナリズムとはこのようなものかと鳥肌が立ちました。また、それ以上に、国民主権ということ、もっと日常的な用語を使うなら、自分たちの国のことは自分たちで決めるという決意がひしひしと伝わってきます。Netflixが見られる方は見られるとよいのではないかと思います。

私たちはどこにいるのか?

ノンフィクションマラソン71冊目は、ジョルジョ・アガンベンの『私たちはどこにいるのか?』です。

ジョルジョ・アガンベンは、イタリアの哲学者・美学者です。今回紹介する『私たちはどこにいるのか?』は、コロナ禍に関するアガンベンの論文・インタビューを集めた本です。

アガンベンは、コロナ禍の下、国家が、公衆衛生上の安全のため、個人の自由を制限していることを強く批判します。さらに、コロナ禍が国家権力によって作られた危機であるというところまで主張を展開します。

当初、私は彼の主張にも一定の妥当性があると考えていたのですが、彼の文章を読み進めるうちに、イライラしてしまい、最後には少し怒りに近い感情まで抱いてしまいました。何にいらだってしまったのか。順を追って説明していきたいと思います。

(1)思考に「度合い」というものが欠けている

この本の中に「15 学生たちに捧げるレクイエム」という短い記事があります。

アガンベンは、大学の授業がオンライン化されたことを激しく批判します。教員と学生が、また学生同士が交流し合うことこそが、大学の意義であると主張するのです。そもそも「大学はヨーロッパにおいては学生組合-ウニウェルシタス-から生まれ、大学(ウニヴェルシタ)という名はそこに由来して」おり、このコロナ禍によって「生活形式としての学生団体が終わりを迎える」という彼の危惧は正当なものだと思います。

ただ、そこから、アガンベンは、突如、オンライン化に協力した教員は、1931年にファシズム体制への忠誠を誓った大学教員と同じだ、けしからんと断罪するのです。

この論の展開に、私は「え?」と声を上げてしまいました。大学教員の多くは対面の重要性を理解しているはずです。健康上のリスクを考え、泣く泣くオンライン授業とした教員が多いのではないでしょうか。断罪せよとまで主張するならば、健康上のリスクに関する議論を丁寧に展開した上で、大学教員の判断ミスを責めるべきでしょう。ただ、そのような話は全く出てきません。

この議論で、何が起きているのでしょうか。補助線として、アガンベンのコロナ関連の言論を擁護した記事を見てみましょう。

www.repre.org

この記事の内容自体は参考になるのですが、アガンベンの言論を考える際の問いの立て方、角度がずれていると考えています。アガンベンの主張は「間違っている」から問題なのではなく、「足りていない」から問題なのです。

例えば「移動の自由は間違っているのか」という問いに、全員が間違っていないと回答するでしょう。だからといって、運転免許制度を廃止すべきであると言われたら、全員がちょっと待ってくれとなるのではないでしょうか。自由と制限はセットで考えるべきものであり、制限を考えない自由の議論は具体性を欠くのです。

今回の記事では深堀りを避けますが、『ホモ・サケル』や『例外状態』という彼の著作を読んだ際、極端から極端に振れる、いわゆるゼロヒャク思考の癖があるなと感じました。ただ、今回のコロナ関係の言論では、もう1つ別の隠れた前提がアガンベンの議論に影を落としていると疑っています。それは、彼が「足りていない」言論で「なければならない」と決意している、また「具体的に考えてはいけない」と自らに言い聞かせているおそれがあるという疑いです。

(2)政策論は権力者の思考?

訳者の高桑氏が解説の中でこのようなことを書いています。

アガンベンの説を紹介した後…(引用者注))何らかの有効な代案が具体的に提示されているわけではない。「統治する側に成り代わって考えることはしない」「無法や暴政に対して代案を立てて相手の土俵に乗ることはしない」という一貫した姿勢の現れだとして評価することは可能だろうが(とりわけ危機が訪れると、少なからぬ人がなぜか施政者の立場から物事を考えてしまうというのは奇妙な事実ではある)、それにしても納得の行かない読者は少なくないだろう。

解説のこの箇所には目を見開かされました。

政策論は権力者がやるべき仕事であり、被統治者が政策を論じるのは相手(権力側)の土俵に乗ることだということをアガンベンが考えているとしたら、刻々と移り変わる現実とかみ合わなくなり、壊れたレコードのように、個人の絶対的自由を主張し続けることを止める契機がなくなります。対案を出せというのも暴力的な発言なのですが、対案も全く出すべきでないというのも堕落なのではないでしょうか。また、そもそも、民主主義国家では、統治者と被統治者はどちらも国民ですよね。

誤ったというよりかは、偏った思考上の自己拘束が、立論のいびつさに影響している気がします。

(3)結局のところ…

(1)で「度合い」という言葉を使いましたが、結局のところ、アガンベンは相矛盾する様々な要素の中で真剣に悩んでいないのです。たとえば、「コロナが危険な感染症であったら」というifを入れるだけで、考えなければならない事柄が増えます。そのような思考実験を行うそぶりさえ見せないのは、いかがなものかと思います。また(2)の前提をもっていたとしても、哲学者としてはその前提がどの状況のどこの段階まで妥当するのかを反省的に思考する必要があるのではないでしょうか。

 

自分自身の思考を汎用的な構えとし、現実の矛盾に真摯に向き合おう!
アガンベンを散々批判してきましたが、上に書いたことは、自らへの戒めともしたいと考えています。

Kindle版で読んだため、引用箇所をうまく明示できていません。だが引用箇所は追えると思います。

航路を変える(22年2月)

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お疲れ様です。寒い日が続きますね。2月になって諸々疲れが出てきており、あまり調子がよくありません。

先日、自宅近くの駅近くにある、柴又帝釈天に行ってきました。画像はその時の写真です。柴又は、その地帯だけ、昭和が残っているかのような街でした。映画「男はつらいよ」のセットがそのまま残っているような感じです。

といいつつも、実は、私は「男はつらいよ」をきちんと観た記憶がなく、初めてシリーズ第1作目を通しで観てみました。第1作目の寅さんは今風の言葉でいうならKYで、よく回りの人が我慢しているなという感想を持ってしまいました。映画が撮られた時代と今の時代とで、人に対する許容度が違うなと感じた次第です。

どんなに短い記事でも、更新を絶やさないことを今年の課題にしているので、2月中に、もう1本記事を出したいと思います。お楽しみに。