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(月3回以上更新目標)

硫黄島

ノンフィクションマラソン55冊目には『硫黄島』です。

硫黄島-国策に翻弄された130年 (中公新書)

硫黄島-国策に翻弄された130年 (中公新書)

  • 作者:石原 俊
  • 発売日: 2019/01/18
  • メディア: 新書
 

硫黄島は、凄惨な地上戦がおこなわれ日本軍将兵の遺骨が現在も多数埋まっている、「終わらない戦争」の現場として知られている。いまだ日本軍側の8000柱以上の遺骨が収容できていない事実も、第6章でふれた菅内閣時のキャンペーンなどをきっかけにようやく認知されてきた。

だが、硫黄列島に島民とその社会が存在していたこと、島民の約九割が強制疎開の対象となった事実は、まだまだ広く知られていない。一〇三人の硫黄島民が地上戦に動員され、そのうち九十三人が亡くなった事実は、さらに知られていない。
そして、硫黄列島が「終わらない冷戦」の過酷な現場でもある事実に、大多数の本土住民はふれることさえないのだ。(p.204)

 クリント・イーストウッドに「硫黄島」2部作(「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」)があります。この2部作は、硫黄島の戦闘を、日米両方の兵士の視点で描いたものでした。この2作、私はリアルタイムで観ていて、記事を書いていました。久しぶりに読み直してみましたがひどいなこれ(笑)。記事が短くて何言っているかわかんないぞ。

tsubosh.hatenablog.com

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 さて、本書では、「硫黄島」とは「地上戦の島」であるという、多くの日本人が持っている歴史認識に挑戦します。この歴史認識は、イーストウッドの映画を見た我々世代も自然と持ってしまうような歴史認識でしょう。戦前に硫黄島で住民がどのような生活をしていたのか、また、地上戦直前に住民の多くが強制疎開させられるのですが、戦中・戦後にどのように生活をしてきたか。地上戦という点ではなく、明治から現在までの時間軸の中で、兵士ではなく住民の視点から、硫黄島の歴史が描きだされていきます。

戦前、プレンテーション栽培が行われ主要作物の1つがコカであったこと、地上戦前の強制疎開のどさくさに紛れ正式な徴用ではない私的な「偽徴用」が行われたこと、戦後、硫黄島は米軍の基地、その後自衛隊の基地が置かれ、住民が帰還できない状況であることなど、決して大きくはない島の歴史から、様々な「悪」の形が見えてきます。また、それらと併せて、日本の「戦後体験」が場所や地域によって大きく異なるということを無視してはいけないこともよくわかる本です。

航路を守る(20年3月)

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皆様、いかがお過ごしですか? 私は、コロナウィルスのせいで、生活の調子がおかしくなっています。体調もよく、映画や展覧会など色々出歩きたいのですが、あまり出歩くのはよくないなと我慢しています。上の写真は上野公園の桜です。我慢しきれず、上野公園には少しだけ立ち寄ってしまいました。

調子が乗らず、本も読む気も出ないため、ちょっとした買い物をしたり、動画を観たりしています。また、自分の過去記事などを読み返して、色々考えていました。自分の現状を、ミッション→ゴール設定→短期的課題(小分けな課題)の三層に分けて考え、ゴールについて「仕事」「健康」「お金」「実家」「友人(人間関係)」「家庭」「学習」の7つについて立ててみました。恥ずかしいので生の目標はここには書きませんが、このブログで目標に向かっているかは検証してきたいと思います。

で、「学習」関係でちょっと考えていたことがあります。昔、自分が専門性がないことについて危機感を感じると書いたことがあるのですが、最近、少し考えが整理できてきました。研究者相当の専門性をこれから会得するのは、実力的・才能的な面で難しいと感じています。諦めというやつです(ちなみに、最近、仕事でも色々限界を感じてきていますが…)。ですから、専門性の水準を目指すのではなく、ある分野に明るくて、少しでも付加価値を加え、人に適切に教えられるレベルを目指したいと思います。また、専門性云々という前に特定分野について概括的に勉強したことがなかったため、遅ればせながら始めていきたいと思います。どの分野かというと「教育学(生涯学習論)」です。その記事も書いていきたいですね。でも、ノンフィクションマラソンや批評書きは継続しますよ。

最近見た動画でよかったのはこれです。投資系の動画なのですが、人生にも当てはまる気がします。今年のテーマを「航路を守る」としてしまいました。

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誰のために法は生まれた

ノンフィクションマラソン54冊目は『誰のために法は生まれた』です。

誰のために法は生まれた

誰のために法は生まれた

  • 作者:木庭 顕
  • 発売日: 2018/07/25
  • メディア: 単行本
 

(デ・シーカ『自転車泥棒』を踏まえ)今日は立ち入りませんけれど、イタリア社会の成り立ち、仕組、歴史、こういうものを踏まえて、監督はイタリア社会の大きな見取り図を描いている。(…)何が言いたいかというと、『近松物語』と同じように、この映画の場合も、社会というものをかなり精密に捉えて描く、分析する、そういう姿勢というか、知的な頭の作業を伴っているということですね。(p.103)

とても面白く、ハイレベルな内容でした。中高生向けの講義をまとめた本なのですが、いきなり溝口健二の映画から講義が始まり驚きました。私、中学生時代、見てた映画、『トップガン』ですぞ。

この本では、著者の木庭氏の研究(ローマ法を中核とした法学)が、映画や過去の古典を参照にしつつわかりやすく紹介されています。木庭氏の議論を私なりに簡単にまとめると、次のようになります。

1)人は生きるために徒党を組むが、徒党は、性格上、ハラスメント的構造を内包するものである。
2)占有は徒党からの影響を排除する「一時ブロック機能」である。
3)占有に支えられ、人々が自由な言論を展開するのが、デモクラシーである。

この1)から3)までの議論展開は、あまり聞いたことがなく、大変参考になりました。特に集団のハラスメント構造の解体は私自身も興味がある分野で、このような議論があるのかと感心しました。

ただ、より感心したのは、議論の内容よりは、映画や過去の古典の読みです。理論があると、このように作品が見えてくるのかという驚きがありました。方法が空回りする批評と違い、作品全体の構造をつかみながら、作品解読自体が理論の解説にもなりうる。私も理論と表現の往復をしたいと常々考えているので、レベルは違えど参考にしたいなと思います。

市民の科学

ノンフィクションマラソン53冊目は、『市民の科学』です。

市民の科学 (講談社学術文庫)

市民の科学 (講談社学術文庫)

 

 とくに実験科学や工学技術の分野では、専門性の裏づけとなるような実験装置や技術情報がもっぱら組織の内部で占有されていため、これとは独立に専門的力量をつけることが難しく、その一方で専門知識の内側にいる人間にとっては、自由な批判を可能にするだけの独立性を獲得することが難しい。

このような現実の状況のもとでは、批判的専門性は、利害集団の外側における、よほど周到な意図的・計画的な継続した努力によってしか保障されないだろう。それを私は、批判の組織化と呼びたい。そこには、個人的努力の次元を超えた文字どおりの組織的努力が必要と考えられるからである。(pp.32-33)

既に皆さんご存じかと思いますが、高木仁三郎とは次のような人です。

高木仁三郎 - Wikipedia

この本では、前半で筆者の高木仁三郎自身が設立した原子力資料情報室について、後半で日本のプルトニウム政策について記載されています。後半のプルトニウムの記述は大変わかりやすく、まさに専門家ではない「市民」の聞き手を意識した記述になっていると思います。福島原発事故発生の頃聞いた様々な断片的知識が、一つの明確な像を結んだ感がありました。

ただ、この本の肝は、上の引用にある「批判の組織化」がどのように可能かということだと思います。現代の科学が「個人的努力の次元」だけで成立しているものではなく、集団的次元で展開している以上、その批判も集団的次元で準備、遂行される必要があります。本の前半にはドイツのNPOや資金繰りの話など、かなり具体的な記述もあり、このような具体的な話をもっと読みたいと思いました。

今、「批判の組織化」なき社会で、科学的知識を吟味することの難しさを感じています。2020年3月時点でコロナウィルスが日本で広がりをみせていますが、特にPCR検査の実施について様々な意見が見られます。自分の頭で考えて情報や意見を吟味する必要があるのは大前提としても、科学的知識の正誤について素人が判断する難しさはあります。しかも、原発事故以降顕著にみられるのですが、科学的対立が、政治的対立により増幅される傾向があります。時の政府におもね科学より政治を優先することは論外としても、政府に批判的意見でも、集団的な検証を経ず、〇〇先生の意見というように個人的な意見が無批判に受け入れられる傾向があるように思います。

『市民の科学』は原発事故「前」に書かれた本です。今、私たちは原発事故以降を生きています。「後」を生きる人間は、「批判の組織化」なき社会で、「後」で分かった問題を踏まえ、「市民の科学」をアップグレードする必要があるのではないかと考えています。

近況報告(20年2月)

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前回から少し更新が開きました。皆様、いかがお過ごしですか。私は、1月以降、体調も良く、色々なところに出かけていました。そんな中、新型コロナウィルスの問題が発生、当分の間、外出を控えようと思っています…。

ちなみに、写真は、日本橋にある三越本店のライオン像です。友人と一緒にある方に対するプレゼントを買うため訪れました。普段あまり百貨店に行く生活をしていないので、百貨店自体がとても新鮮でしたね。


長回し&リアルタイムで胸アツ!第1次世界大戦描くサム・メンデス監督映画『1917(原題)』映像

最近、あまり映画を見ていなかったのですが、「1917」は観ました。観終わった後、撮影技法としての長回しだけがクローズアップされている点に少し違和感を感じました。長回しを使用していても、監督の意図として、リアリティを追及しているわけではないような気がしたのです。別に観た友人(上の友人とは別)は、「1917」は「民話的」だとコメントしていました。「民話的」というコメントを私がどこまで理解できているか分かりません。ただ、私も、「1917」は、記録性よりは物語性の方が優っている映画ではないのかなと感じています。あと、ロジャー・ディーキンスの撮影は素晴らしいです。夜、町が燃えるシーンは、不謹慎ながら美しいと思いました。

さて、既に2月も終わりに近づいていますが、今年のテーマについて書いてみたいと思います。昔は、年ごとに目標を立てていた時期があったのですが、最近は立てていませんでした。つらつら考えてみると、次のような理由があったように思います。

・他の優先事項が頻発して予定が狂うため、目標を立ててもあまり意味がない。
・自分の思いのみを基準に目標を立てるため、現状を無視してしまうことが多い。
・年齢的にも、そろそろ自分のことだけでなく周りのことも含めて考えていく必要があるのではないか。

これらを勘案すると、現状を見据えた課題を設定し、それを小分けにして解決しつつ、できれば他者に対して付加価値を提供できるようにもなることが重要かなと思います。

抽象的な表現となりましたが、これを1つの行動原理として1年を過ごしていきたいと考えています。昨年のテーマは「視線を上に」でしたが、今年のテーマは「小分けな課題たち」としたいと思います。

ただ、1つ、他人が全く関係しない目標を立てます。痩せないと!