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(月3回以上更新目標)

沈黙、発話、発達~映画『デトロイト』を活動理論で読み解く(中篇)

 (前篇はこちらから)

tsubosh.hatenablog.com

 

1.2 『拡張による学習』

拡張による学習―活動理論からのアプローチ

拡張による学習―活動理論からのアプローチ

 

 エンゲストロームは、『拡張による学習』の日本語版まえがきで、同書の目的を次のように述べている。

本書『拡張による学習』は、集団的な創造活動について述べている。私のテーマは、私たちが人間として、自分たちの制度や行為を転換できなければならないこと、しかも徹底して、あらゆる参加者の知性とエネルギーを結集してそうできなければならないということにある。そのとき、創造性は、まさに集団的な転換への実践的な参加として理解されるだろう。さまざまな学習理論が人間の行動や認知における永続的な変化を説明しようとしてきたが、未だ次のような問題の核心には届いていない。すなわち、人々は自らの周りの状況を変えることによって、いかに自分たち自身を変えることができるのか、という問題である。この問い、これこそが拡張的学習という新しい理論が求められるゆえんなのである。(『拡張による学習』p.i)

 引用にある「集団的な転換」は、活動理論を理解する上で重要な概念と私は考えている。「集団的な転換」について、「集団」と「転換」の2要素に分け、それぞれ検討する。

(1)「集団」

 近代哲学には三項図式と呼ばれる図式がある。それは、認識主体(主観)が、物を、表象を介して認識するというモデルである。図で書くと図1となる。ここでの表象の考え方は複数ある。最もわかりやすく極端なものは、表象は物の模像という考え方である。模像というだけあって、ここでの表象は積極的な意味を持たない。

                  図1

              主体→(表象)→物(対象)

 しかし、上記の図式に対しては反論が多い。例えば言語論からの異議がある。ある文化圏ではある事象を表す語彙が貧しいのに対し、他の文化圏では豊かなことがある。言語は、世界を意味づけている(分節化する)ものである。日本語を話す我々は、日本語の中に住まいその拘束を受けつつも、それを能動的に使用して言語的創造を行っている。ここでの言語は、模像のような受動的なものではなく、もっと能動的な「道具」的な性格を有するものである。これを図式化すると図2となる。

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先ほどは直線的な図であったが、今度は三角形となっている。さらに、エンゲストロームは、この三角形だけでも人間の活動を捉えることはできないと考える。特にこの三角形を支えている下の他の三角形群も意識しないといけないと考える。人間の活動、人間の集合的な活動を、エンゲストロームは図3のような図式で考える。

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ここでまた会社の場面を考えてみよう。会社での「生産」の「対象」を、新製品開発とでもしておく。新製品開発のために「道具」として新規のITサービスを導入することがある。しかしそれだけでは新製品開発に結び付くとは限らない。頂点の1つが変わるだけでは、システム全体は動かないことが多いのだ。組織が大きくなると情報に偏差が生じることは既に述べた。それは「共同体」と「分業」を頂点とする三角形、情報の「分配」のドメインに問題が発生している事態である。いくら道具を変更しても、別のサブシステムが機能不全を起こしている場合、システムとしてうまく機能しない。「交換」や「分配」ドメインのような下部構造も含め、人間の活動を1個の「集団」システムとして考えなければならないと、エンゲストロームは考えるのである。

(2)「転換」

 この集団システムは、静態的なものでなく、自身の内部又はシステム間に矛盾をはらむ動態的なものである。

 先に矛盾は、歴史的・文化的な文脈から生じると述べた。例えば、IT化・グローバル化によって、昨今、企業は図4のような矛盾・葛藤をはらんでいると考えられる。いささか極端に図式化しているが、上が最近の傾向、下が以前の状況である。矛盾、葛藤が生じるポイントは、各会社の置かれた文脈によって異なる。しかし、矛盾を解決するためには、集団システムの内部又は集団システム間で何が起きているかを把握し、調整を行う必要があることはどの会社でも変わらない。

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 さて、エンゲストロームは、学び(学習)を考える際、グレゴリー・ベイトソンの学習理論をベースとしている。(ベイトソンが学習理論を展開したものとしては、『精神の生態学』が代表的である。)

精神の生態学

精神の生態学

 

 ベイトソンは、学習をⅠからⅢまでの3つのレベルに分けて考える。前篇で紹介した受験勉強を例に上げるなら、学習Ⅰは過去問を個別に解く学習、学習Ⅱはそれらの規則やパターンを獲得する学習である。この学習Ⅱは意識的なものに限らない。ベイトソンは、学習Ⅱを個人の「性格形成」とも考えている。それに対し、学習Ⅲはその規則の意味や形成された「性格」自体を問い直す学習である。

 個人に性格があるように、会社にも培ってきた習慣(上の三角形でいう「交換」や「分配」のドメインに当たるだろう。)がある。専ら国内市場をターゲットとしてきた企業が海外展開をしようとする場合、会社の体制に変更を迫られる。新しい体制に移行することができれば問題ないが、うまく移行できない場合も多い。しかし、時代の流れゆえ、古い体制のまま存続しつづけるのも難しい場合もあるだろう。その場合、ベイトソンが提唱した有名なダブルバインドの状況に陥ることになる。

 ベイトソンは、子供と子供を愛せない母親の例を挙げ、ダブルバインド概念を説明する。子供を愛せない母親も子供に対し「愛している」と口では言う。しかしながら態度では「愛していない」という暗黙のメッセージ(メタ・メッセージ)を送っている。どちらのメッセージを受け取っていいかわからない子供は混乱する。しかも、子供は母親との関係から逃れることができないのである。会社でも、社長が海外展開すると宣言したはいいが、従来どおりの業務体制に固執する場合、現場は混乱してしまうだろう。そして社員は簡単には会社を辞められない。ベイトソン統合失調症を解明するためにダブルバインド概念を創出したが、労働の場面でもダブルバインド的状況は頻発しているのである。

 では、先の企業の場合、どのようにしたらダブルバインド状況から脱出することができるのか。問題となっている状況は、今まで蓄積してきた組織の「性格」が世の中の流れに適合しないという点だ。エンゲストロームは、これを従来の活動と「与えられた新しい活動」との間の矛盾と捉える。「与えられた新しい活動」に適応できない場合、自ら新たな活動を創り出すしかない。問題を解決するのではなく、問題を転換するのである。対応策として、現状がダブルバインド状況になっていることを自覚し、改めて業務の強み・弱みを問い直した上で、グローバル化したこの社会でも対応できる国内サービスを構築する方法もあるだろう。個人で問題を解決するのではなく、集団でダブルバインドを乗り越えるため状況を再定義するのだ。

 エンゲストロームは、ダブルバインドとその解決について次のように述べている。

言いかえれば、本書の関心になっている発達のタイプ-すなわち、新しい活動構造の拡張的生成-は、ダブルバインドの直観的、あるいは意識的な習得を必要とする。ダブルバインドは、今や、バラバラな個人的行為だけでは解決されない、社会的な、社会にとって本質的な(social, socially essential)ジレンマとして再定式化されるだろう。そのジレンマのなかでこそ、共同の協働的行為は歴史的に新しい活動の形態を出現させることができるのである。(『拡張による学習』p.198)

以上、『拡張による学習』を中心とした活動理論のエッセンスと思えるものを紹介してきた。活動理論は、集団システムの見取り図である三角形をチェックリストとして使い、システムに生じている矛盾やダブルバインドを意識化・顕在化させ、それを解決する手がかりとなる「道具」を提供するための臨床的な理論である。『拡張による学習』(翻訳版を読んだ限りだが)では理論的な話に終始し実証研究の成果はほとんど紹介されていないが、『ノットワークする活動理論』では企業や行政への参与観察の成果が紹介されている。(ちなみに『ノットワークする活動理論』では、ドゥルーズ/ガタリリゾーム概念を参照しつつ、組織編制の方法として「チーム」を超えた「ノット」(結び目)を提唱する面白い試みを行っている。)また、日本でも活動理論を活用した実証的な研究が多数出されている*1

ノットワークする活動理論: チームから結び目へ

ノットワークする活動理論: チームから結び目へ

 

  実は、映画『デトロイト』を観たときに似ているとして思い浮かべたのがこの活動理論のことだった。教育理論と映画という一見何の関係もない両者のどこに結び目があるのだろうか。点と点を結んでみたい。

 (後篇はこちら)

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*1:Ciniiで「活動理論」での検索結果は次のとおり。本稿での紹介は『拡張による学習』によっているので、その後の展開は各論文を読まれたい。

https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E6%B4%BB%E5%8B%95%E7%90%86%E8%AB%96&range=0&count=100&sortorder=1&type=0

沈黙、発話、発達~映画『デトロイト』を活動理論で読み解く(前篇)

本稿では、フィンランドの教育哲学者ユーリア・エンゲストローム(Yrjö Engeström)が提唱する文化-歴史的活動理論(本稿では「活動理論」と短縮します。)について『拡張による学習』を中心に紹介するとともに(前・中篇)、2018年1月に日本公開された『デトロイト』(原題:Detroit、キャサリン・ビグロー監督)に即して活動理論のポテンシャルを検討したいと思う(後篇)。

 

1.活動理論とは ~『拡張による学習』から

 1.1 日常的な「学び」の諸相から

 (1)受験勉強と会社での学び

 活動理論は難解なためイメージがつかみづらい。活動理論を紹介する前に、まずは日常的な面に即して「学ぶ」という行為を振り返ってみたい。

 まず受験勉強の場面を考えてみよう。受験勉強では、過去問をただ漫然と解くだけでなく、問題が一定のパターンを持って出題されることを把握することが重要だとよく言われる。また、理解を深めるため、パターン化した知識を、教科書に書かれている記述と突き合わせて体系的理解を行うこともよく行われる。このように、個別事案をグループ化し、整理・体系化することは、学びの大事な要素の1つであろう。

 知識の整理・体系化は、会社などの労働の場にも見られる。実務でよく起きる事例や特筆すべき事例を記録し、それらを整理したマニュアルを作成する。そして、このマニュアルと業界の標準的な基準などを照らし合わせ、ブラッシュアップを行っていく。標準から個別案件へ向かう場合(演繹的アプローチ)もあれば、個別案件から標準へ向かう場合(帰納的アプローチ)もあるが、個別知識をパターン化することや整理することの重要性は、受験勉強と同じである。

 しかしながら、会社での学びには、受験勉強には還元されない要素がある。受験勉強であれば、個人の能力に限界があるという側面はあるが、効率的に勉強を行い、勉強時間を増やせば、多くの場合合格を勝ち取ることができるだろう。ただ、会社での学習はそうはいかない。受験勉強は個人で行うものだが、会社での学びは会社という組織(集団)の中で行うものだからだ。どれほど業務を効率化し、労働時間を増やしても、目標設定(例:どのような商品を売るのか)を誤れば全てが無に帰してしまう。受験勉強には正解があるが、実務には正解がないのである。また、会社は役職や部署によって知りうる知識に大きな違いがある。情報の非対称性が避けがたく存在するため、調整の仕事が必要となる。企業体が大きくなればなるほど、調整作業はより重要となる。各部署の調整を行えるようになることも、会社における学びの重要な側面であると言えるだろう。

(2)学びと矛盾

 (1)では受験勉強と会社での学びとを比較した。ただ両者とも学びを突き詰めていくと同じ問題に突き当たる。それは、なぜ学ばなければならないのか、学ぶことが自分にとって、社会にとってどのような意味があるのかという問題である。

 違法行為を行っている会社が隠蔽のためのマニュアルを作成していたという事例がある。どの会社も違法行為を表立ってよしとすることはなく、法にのっとって業務を行っていると主張するだろう。しかし、ルールを遵守すると多大な金銭的負担が生じる場合がある。そこでルールを遵守せず、問題が発生しても隠蔽を組織的に行い、その方法自体を精緻化させることもある。個別事案を整理し体系化を行う点は(1)で紹介した学びと全く同じである。ただ、向かうべき目標が悪しき目標なのである。ここまで極端な事例でなくとも、学びの意味の問いを発生させるという意味では、受験勉強も同様の構造を持つ。高校の勉強は、間違いなくそれ以後の人生で糧になるものだ。一方、受験勉強は選別という側面を持つ。受験勉強の選別の側面に嫌気をさし、多くの若者が勉強の面白さに気づくことなく、それを忌避してしまう。このように、意識的であれ無意識的であれ、自身が行っている学びの意味について考える行為は、知識を整理し体系化することを超え、学び自身の前提条件を問うメタ的な行為となる。

 学びの場でこのような疑問や矛盾が生じるのは、学ぶ行為が実験室の中で行われるものではないからである。学びには必ず歴史的・文化的な文脈が存在する。日本での受験勉強を例に上げるなら、学歴の取得が立身出世につながるという文脈がある。立身出世という社会的文脈と学問自体の面白さという普遍的価値が逆方向のベクトルを向くとき、矛盾が生じる。当然ながら同じ受験文化でも韓国と日本では矛盾の現れ方が異なり、日本でも昭和40年代と現在とは矛盾の現れ方が異なるであろう。疑問や矛盾を克服するためには、問題が生じるところの歴史的・文化的な文脈を具体的に把握する必要があるのだ。 

 今まで学びについて日常的な諸相を考えてきた。では、この諸相を活動理論の観点から捉え直すとどのように見えてくるだろうか。

 (中篇はこちらから)

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南方熊楠

ノンフィクションマラソン25冊目は、南方熊楠の概説書(新書)です。 

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

 

熊楠の在り方は、私たちの常識を揺さぶる。また、熊楠による「大日(大不思議)」に関する言葉は、我々に、視覚化・対象化不可能な「生命そのもの(根源的な場)」を思索するための重要な手がかりを与えてくれる。熊楠は、私たちにとってあまりにも近くにありすぎて見落としているものを気づかせてくれる。それは「適切な距離」とは何かということであり、「根源的な場(自然そのもの・生命そのもの)」とは何かということでもある。(p.277)

 先の日曜日、友人らと共に、国立科学博物館で開催されている「南方熊楠生誕150周年記念企画展南方熊楠-100年早かった智の人-」に行ってきました。展示はかなり充実していましたのでお勧めです。

南方熊楠生誕150周年記念企画展「南方熊楠-100年早かった智の人-」(2017年12月19日(木) ~2018年3月4日(日))- 国立科学博物館

さて、展示を見た率直な感想は、熊楠は難しいなというものです。比喩的な表現で恐縮ですが、巨大な光源がプリズムで乱反射している感じがしました。折角の機会、もう少し熊楠のことを知りたいと思い、上記の新書を読んでみることにしました。

この本は、時折思想的に踏み込んだ記述をはさみつつ、わかりやすく熊楠の生涯をまとめています。また、熊楠の特徴を「距離の不在」(境界の不在)と捉えています。主体と対象の間の距離、性に関する距離、現と夢の距離、生と死の距離が熊楠ではほとんど消失しており、それが彼の収集癖や思想(南方マンダラ)につながっていると考察されています。

先般、柳田を読んだときかなり精神分析と近い場所で思考している感じがしましたが、今回読んだ熊楠もとても近い感じを受けました(熊楠自身もオカルティズムに相当興味を示していたようです。)。私はノンフィクションは民俗学と類縁性がかなりあると思っていましたが(また、私だけでなく多くの方もそれを指摘していますが)、民俗学精神分析という領域もかなり類縁性があるかもしれません。

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結果が出ました

シリーズ前回、「自分への戒め」のため点数を書くと言った行政書士試験の結果が出ました。結果は300点満点中192点で「合格」でした。実勉強期間が9月からと2か月強だったためあまりよい点数ではありませんが、2か月固めて勉強するよい機会となりました。

想定してはいましたが、とにかく「時間」がありませんでした。「時間」が社会人の勉強の最大の敵だということがよくわかります。平日はほぼ勉強できず土日にやるしかないのですが、土日も何だかんだ言って1日はつぶれてしまいます。よくスキマ時間を活用しましょうといわれますが、スキマ時間は少し「ぼー」として頭を休ませたいので活用できず。最後の1週間、定期試験前の高校生のように勉強していました。

法律の勉強は継続し、再来年くらいに予備試験の短答を受けてみたいと思っています。

 この「三歩後退一歩前進」シリーズ、次は勉強の話を離れ、自分が大学院時代に考えていたことと、見て衝撃を受けたプロレスの試合について書きたいと思います。

 

デトロイト

キャサリン・ビグロー監督の『デトロイト』を見てきました。


『デトロイト』予告編/シネマトクラス


この映画は、1967年夏にアメリカ合衆国デトロイトで起きた暴動を描いた映画です。
映画の始めはデトロイトで起きている暴動をニュース映像などを使って<外側>の視点から描いていきます。正直、ちょっとかったるいなと思っていたのですが、アルジェ・モーテルの場面から急にエンジンがかかり始めます。

モーテルの場面までにほぼ全員の登場人物の人となりが描かれた後、彼ら全員がモーテルに集結します。登場人物の1人がおもちゃの銃を発砲したことで、暴動で警戒中の警官がモーテルに流れ込みます。白人警官が黒人に対し激しい尋問を行い、最後には殺人までに至るのですが、観客は全ての登場人物の人となりがわかるため、このシーンでほとんど自分も尋問されているような感覚に襲われます。観客は、警官が公然と法を破るアウトローな世界の<内側>に引き込まれるのです。暴力と沈黙(「ここで起きたことを話すな」)が支配する世界にです。

モーテルの事件後、白人警官の裁判のシーンがあるのですが、モーテルのシーンを見てしまった後ではいかなる弁論も虚しく響きます。<外側>の言葉で<内側>を語ることができないのです。

この映画は、人種差別を<解説>するのではなく、それが行き着く先を<体感>させるような映画となっています。