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(月3回以上更新目標)

デトロイト

キャサリン・ビグロー監督の『デトロイト』を見てきました。


『デトロイト』予告編/シネマトクラス


この映画は、1967年夏にアメリカ合衆国デトロイトで起きた暴動を描いた映画です。
映画の始めはデトロイトで起きている暴動をニュース映像などを使って<外側>の視点から描いていきます。正直、ちょっとかったるいなと思っていたのですが、アルジェ・モーテルの場面から急にエンジンがかかり始めます。

モーテルの場面までにほぼ全員の登場人物の人となりが描かれた後、彼ら全員がモーテルに集結します。登場人物の1人がおもちゃの銃を発砲したことで、暴動で警戒中の警官がモーテルに流れ込みます。白人警官が黒人に対し激しい尋問を行い、最後には殺人までに至るのですが、観客は全ての登場人物の人となりがわかるため、このシーンでほとんど自分も尋問されているような感覚に襲われます。観客は、警官が公然と法を破るアウトローな世界の<内側>に引き込まれるのです。暴力と沈黙(「ここで起きたことを話すな」)が支配する世界にです。

モーテルの事件後、白人警官の裁判のシーンがあるのですが、モーテルのシーンを見てしまった後ではいかなる弁論も虚しく響きます。<外側>の言葉で<内側>を語ることができないのです。

この映画は、人種差別を<解説>するのではなく、それが行き着く先を<体感>させるような映画となっています。

冷血

ノンフィクション24冊目は、ノンフィクション・ノベルの代表作、トルーマン・カポーティの『冷血』です。お正月休みに一気に読みました。

冷血 (新潮文庫)

冷血 (新潮文庫)

 

『冷血』もはじめて接したときには、犯人ペリーが説明しがたい衝動から一家四人惨殺の凶行に走るシーンをクライマックスとする不条理な犯罪劇に圧倒された。しかし、今回は、衝撃的な事件の背後から、家族の物語というまた違った相貌が立ちあらわれてくるように思われた。(p.620「解説」)

陰惨な事件がテーマとなっているため、こう言うことに若干の後ろめたさも感じますが、これほど「面白い」小説はなかなかないです。たびたび出てくる夢のシーンからわかるように、登場人物の心象についてかなり突っ込んで書かれているのですが、取材によって得た事実ではなく、カポーティ自身のイマジネーションではないかと感じたところが多々ありました。事実ベースの物語なのですが、随所に小説家独特のセンスが感じられます。

宇多田ヒカル論

少し時間があいてしまいましたが、ノンフィクションマラソン23冊目です。このペースで大丈夫なのでしょうか…。さらに「ノンフィクション」というものの境界もわからなくなってきていますが、今回はポピュラー音楽の批評本です。

宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌
 

 通読して痛感したのは、詩を分析するのは難しいな、ということです。この本では、宇多田ヒカルの詩を、3つの軸、ultra(超越的なもの)・natural(内在的なもの)・fantome(亡霊的なもの)を通して分析します。率直に言って、個々の詩の分析が少し雑だなと思う面がありました。しかし、すごく面白い分析をしている箇所があったので、そこを紹介したいと思います。

本論に入る前に、少し脱線をします。

たまたまYoutubeで動画巡りをしていたら、元NMB48須藤凜々花さんが、あるTV番組の「俺の持論」というコーナーで「優しい嘘極悪論」を主張していました。彼女は、嘘には3種類あるといいます。「他人に対する嘘」、「自分に対する嘘」、そして「優しい嘘」です。他人に対する嘘は、私たちが普段「嘘」という言葉で考えているものです。自己に対する嘘は、自分の本心を押し殺してしまうような態度です。聞き慣れない「優しい嘘」とは、本当は不味い料理をおいしいと伝えるような、人を傷つけないようにする嘘だと彼女は言います。この「優しい嘘」が、一番問題のある嘘だと彼女は主張します。なぜなら、自分の本心を押し殺し、更には相手の改善の機会を奪うものだからです。そして「優しさ」を拒絶し、本心に忠実に生きていくべきだ、と彼女は考えるのです。この意見は、嘘を自己との関係で捉える卓越した見方だと私は思います。

宇多田ヒカル論』の著者、杉田俊介は、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」の歌詞の中にある「優しさ」という言葉に注目します。


宇多田ヒカル - 誰かの願いが叶うころ

宇多田ヒカルさん『誰かの願いが叶うころ』の歌詞

 

「人は他人や世界に対する優しさをもっと身につけたほうがいい」と言っているのではない。「かつての自分には恋人への優しさが足りなかった」と言ってるわけでもない。
ただ、ある種の優しさは、良かれ悪しかれ、「私」の中に自然と「身につ」いてしまうのだ。本当にそうなのだ。その優しさが、何かを変えてくれるわけでもない。「小さなこと」によって失われてしまった愛が、再び戻ることもない。
この優しさは、たぶん、何物も生み出しはしない。
それでも、人はただ、どうしようもなく、優しさを深めていく。「小さな地球が回るほど」、ひたすら優しくなっていく。(p.150)

須藤が「優しい嘘」の欺瞞性を撃つのに対して、宇多田ヒカルは「優しくなり続けていくことでしか生きられない」(p.151)人間の業を歌うのです。本当は「優しく」なんかありたくないのに「優しくならざるを得ない」人間の業を。
両者の違いは優劣の問題ではないでしょう。私は両方の意見とも大好きです。敢えていうなら、現実に対する「哲学」と「芸術」のアプローチの違いといえるかもしれません。

p.s 杉田さんも述べているように宇多田ヒカルの歌詞はかなりすごいです。私も1度、本ブログで触れたことがあります。御興味があれば。

tsubosh.hatenablog.com

 

ノンフィクション100冊マラソン(~2017年)【倉庫】

1冊目:澤地久枝『密約』
2冊目:斎藤茂男『父よ!母よ!』
3冊目:コリン・コバヤシ『ゲランドの塩物語』
4冊目:河上肇『貧乏物語』
5冊目:NHK「無縁社会プロジェクト」取材班『無縁社会』
6冊目:杉山春『移民還流』
7冊目:ラビア・カーディル『ウイグルの母 ラビア・カーディル自伝』
8冊目:デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウィンター』
9冊目: 堀江邦夫『原発ジプシー』
10冊目:アンドレ・ジイド『コンゴ紀行』
11冊目:アンソニー・ルイス『敵対する思想の自由』(2017.3.12)
12冊目:柳田国男『遠野物語・山の人生』(2017.5.8)
13冊目:武田徹『日本ノンフィクション史』(2017.6.5)
14冊目:足立巻一『やちまた』(2017.7.2)
15冊目:ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』(2017.7.12)
16冊目:松原岩五郎『最暗黒の東京』(2017.7.17)
17冊目:佐々木敦『ニッポンの音楽』(2017.7.22)
18冊目:ヒュー・G.ギャラファー『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』(2017.7.31)
19冊目:加藤直樹『謀反の児』(2017.8.8)
20冊目:板倉聖宣『ぼくらはガリレオ』(2017.8.20)
21冊目:伊藤彰彦『映画の奈落』(2017.9.19)
22冊目:原一男ほか『ドキュメンタリーは格闘技である』(2017.12.2)

【ロング書評】ジャック・デリダ『アーカイヴの病』を読む(後篇)

(前篇はこちら)

tsubosh.hatenablog.com

3.『アーカイヴの病』読解

 デリダは様々な引用や比喩を使い『フロイトモーセ』への批評を複雑に構成する。ここでは細かな分析に立ち入らず、あえて論の大枠を図式的に説明していきたい。

(1)アーカイヴの「アルコン」的原理

 デリダは、アルケー(始原)という語へ言及しつつ、アーカイヴという語について以下のように書いている。

(…)『アーカイヴ』の意味、その唯一の意味は、ギリシア語のアルケイオンに由来する。それは当初、上級政務官の、アルコン(アテナイの執政官)の、支配していた者たちの家であり、住居、住所、逗留地だった。政治的な力をこのように保持し示していた市民たちには、法を作成したり代表したりする権利が認められていた。このように公に認められた彼らの権威が尊重されたので、その当時公文書は彼らの元に(…)集められたのである。(『アーカイヴの病』p.3)

ギリシア語が使用され一見深淵な見解にも見えるが、アーカイヴに対する極めて常識的な捉え方とも言えよう。ある人が特定の作家の文書を集め保存する、それらが集積されるとともに特定の意味づけが行われ、一つの意味体系として権威化されていく場面を考えればそれほど奇妙なことは語られてないのではないか。このアーカイヴのモデルは、当初ほとんど存在しなかった資料が、様々な人の努力により徐々に蓄積されその意味付けも豊かになる、過去から未来への発展モデルとも言える。また、アーカイヴを占有する者(アルコン)に意味づけや権威づけが独占される暴力的な面も見て取れるだろう。引用に示されたようなアーカイヴのモデルを、デリダはアーカイヴの「アルコン的原理」と呼ぶ。

 前章(2)でイェルシャルミが例として出した聖書の再贈答エピソードは、「アルコン的原理」の最たる例である。そのエピソードは、イェルシャルミがフロイトの父の立場に立ち、フロイトを象徴的に「再割礼」しようとしているのだ、とデリダは主張する。フランツ・カフカ(彼もユダヤ人である。)に「流刑地にて」という短編があるが、そこでは処刑機械が罪人の肉体に罪名を鋭い針で書き込み、強制的に法の支配に服させる様子が描かれていた。イェルシャルミは、新しい皮(包皮)にヘブライ語が刻み込まれた聖書を物言わぬフロイトに与え返すことで、フロイトユダヤ性という「他に還元できない排他的な唯一性」のなかに回収しようとしているのではないか、とデリダは批判するのだ。

 アーカイヴはこの「アルコン的原理」だけで構成されるのだろうか。デリダは否と考える。彼は、「アルコン的原理」とは異なる、自身を未来から反復的に裂開していくようなアーカイヴの構造があると述べる。それがアーカイヴの「亡霊」的構造である。

(2)アーカイヴの「亡霊」的構造

  イェルシャルミの『フロイトモーセ』は、第1章から第4章までが彼の講演の書き起こし、第5章が「フロイトとのモノローグ」というフロイトへの手紙で構成されている。デリダは、この本の第1章から第4章までにはあまり興味を示さず、第5章「フロイトとのモノローグ」を同書の「臍」と呼び執着する。第1章から第4章は歴史を客観的に叙述するにすぎない(事実確認的言表)が、第5章ではフロイトとの対話という前代未聞のパフォーマンス(言語遂行的言表)が行われているから、というのがその理由である。

 ある作家のアーカイヴを解釈しようとする者のなかには醒めた関心で仕事として行っている者もいないわけではないが、多くは死者である作家に魅力を感じ著作(アーカイヴ)を解釈しようとする者が大半なのではないだろうか。このような者は、比喩的に批評対象である作家に「憑かれている」(「病で熱にうなされている」)状態かもしれない。事実、『フロイトモーセ』第5章で、イェルシャルミは次のように語っている。

 私はあなたの尋常ならざるお仕事(tsubosh注:『モーセ一神教』)に没頭する中で、近年他の人々が発見した事柄に左右されてはおらず、当のお仕事は今なお『成仏できない亡霊のように』私に取り憑いています。(『フロイトモーセ』p.193)

 イェルシャルミはフロイトの「亡霊」へ何度も仮想的に語りかけを行い、自説を受け入れようとしてもらう。死者でもあり、亡霊の専門家でもあったフロイトに。当然、フロイトは何も答えてくれない。不在者との非対称的なコミュニケーションが第5章中で展開される。そのような状態の中、イェルシャルミはフロイトユダヤ性の中に回収しようとしているのだ。

 ここで「亡霊」という言葉に即しながら、事態をもう少し細かく見ていこう。まず、亡霊はこの世界のものではなく、異世界(異時間)のものである。亡霊は突然到来(venir 英語のcome)し、気づかないうちに人はそれに取りつかれてしまっているものである。イェルシャルミがユダヤ性への取り込みというアルコン的原理を作動させる前に既にフロイトの亡霊は彼に到来してしまっている。デリダは亡霊の到来という事態を、未来(avenir 、「来るべきもの」という意味となる。)という用語で語る。この未来はアルコン的原理の未来(アーカイブの生成・発展)とは質的に異なる未来である。

 イェルシャルミの『フロイトモーセ』は、その広範なリサーチからフロイトのアーカイヴの意味づけに影響を与えるものだろう。滑稽な話だがフロイトの亡霊がフロイトのアーカイヴ自身に影響を与えている事態が起きているとも言える。ただ、亡霊はそれ自体としてはアーカイヴ化されない。亡霊がアーカイヴ化されるとしたら、「現世化」(変形)された痕跡のみである。

 まとめるなら、亡霊とは、到来する(未来的な)、アーカイヴに影響を与えるがそれ自身としてはアーカイヴ化されない、アーカイヴとは「他」なるものであるといえよう。また、亡霊はフランス語でrevenant(再来するもの)ともいう。亡霊は何度も反復して回帰するものであると、デリダは考える。デリダは、イェルシャルミが否定した<父殺し>の反復を擁護する。実際に殺害がなかったとしても殺害の意図はあったかもしれないからだ。その意図が社会に残り、アルコン的原理に基づく「現勢的」アーカイヴに対する「潜勢的」アーカイヴとして影響を与える可能性もあるとデリダは考える。

 「亡霊」に関する今までの読解を裏付けるだろう箇所を以下に紹介する。

いずれにせよ、反復のない未来は存在しないだろう。そしてそれゆえに、アーカイヴのアルコン的創設の中に、<一者>と<唯一独自なもの>の定立、自己-定立あるいは他律-定立の中に、法規範的なアルケーの中に、過剰-抑制を書き込むエディプス的暴力の亡霊を持たないような未来は存在しないとフロイトは言うところであろう。(…)この病は、アーカイヴの病、アーカイヴの欲望と混乱でもあるが、それなしには指定も記載もないだろう。(『アーカイヴの病』p.134)

 アルコン的原理の手前で、アーカイヴは、「熱病」、つまり「他なる」未来に反復的にさらされ、自己裂開(デリダの用語でいえば「差延」)し、自己を再構成するのである。

4デリダから少し離れて

 この記事で『アーカイヴの病』の議論の大枠をつかんでいただけだろうか。デリダによるアーカイヴの亡霊的構造の説明は、フロイトの議論以上に錯綜し、よくわからない箇所がある。最後に思いつきであるが、デリダとは別の著書を紹介することで、この記事を閉じたい。

 柄谷行人は『憲法の無意識』でフロイトを援用しながら、憲法9条の無意識的構造について論じている。

憲法の無意識 (岩波新書)

憲法の無意識 (岩波新書)

 

 アジア・太平洋戦争という強烈な外傷ゆえに、「超自我」(道徳的禁止命令)としての憲法9条が成立した。憲法9条を変えようする動きがあっても、誰もが忘却している無意識的な外傷的記憶が回帰し、「超自我」である憲法9条が反復的に作動する、というのが柄谷の説である。この無意識的構造の強固さゆえに憲法9条は「絶対改正されない」と柄谷は主張するのだ。率直に言って『憲法の無意識』で展開されている議論には首肯しがたい点も多々あるが、この憲法9条の<無意識的構造>というアイデアは捨てきれないなと考えてしまった。デリダの表現を使えば、憲法9条がアジア・太平洋戦争の「亡霊」とアーカイヴの問題に連なる、という点に柄谷は気づいている。鎮魂のアーカイヴとしての憲法9条とその関連資料。よく戦争経験の風化ということが語られるが、<経験・記憶の伝承>という次元を超え、<社会の無意識>を論ずるあり方は一考に値するかもしれない。『アーカイヴの病』でのデリダの議論は、外傷的な出来事(戦争・災害)を巡るアーカイヴと親和性が高いような気がする。

 ただ、柄谷はこの無意識の構造は変更不能のものであると根拠なく断じる。あたかも結論はこうですから後は従ってくださいというような論を前にすると、私はどうしても疑いの目を向けてしまう。イェルシャルミと同様、私は、無意識を過度に強調する説明が人間の日々の努力、主体性を見落としている気がして好きにはなれない。

 無意識(亡霊的構造)と人間の主体性(アルコン的原理)との相互関係を、より具体的な場に即して具体的に考えていく必要があるのではないか。それが『アーカイヴの病』を読んでの、今の私の感想である。